漫画「哭きの竜」全巻感想(ネタバレあり)
感想は、「麻雀漫画」好きのぶらっくうっどが書いてます。
よろしくお願いします!
「哭きの竜」はこんな人に読んで欲しい
- 男だらけの、男くさい漫画が読みたい人!
- ネットミーム「ふっ、あんた背中が煤けてるぜ」のセリフと作品名だけは知ってるけれど、実際、漫画を読んだことがない人
概要・ストーリー
概要
能條純一(のうじょうじゅんいち)先生の麻雀漫画。1985年から1990年まで『別冊近代麻雀』で連載された。
2005年まさかの続編、『哭きの竜・外伝』が連載。さらに2016年、外伝のその後を描いた『哭きの竜〜Genesis〜』が連載された。
ストーリー
何か色々悪そうなやくざと麻雀をして、やくざの方が勝手に殺し合ったり色々して「竜を手に入れる」(??)ことを目的にしてあれこれ言うけど、空気を読まない「竜」がひたすら鳴きまくって勝ち続ける。
?・・麻雀、あまり詳しくないですが、鳴きまくって勝っても、点数が低いね? 主人公の「竜」を取り合うってどういうこと?BL?
鳴きまくると、点数低いよー。・・・どうも「竜」がゲン担ぎに良いと親分が思い込んで(?)竜の取り合いになるという。
BLではありません!が、見る人によっては・・・?
ストリーだけざっくり聞くと、そんな感じだよね。変わった設定!
「哭きの竜」感想・作品の立ち位置など
「麻雀漫画の歴史を変えた」と言われている重大な作品
能條純一先生といえば非常に多作です。
少年誌に連載され、アニメ化こそされていないもののドラマ化されて「竜」よりもはるかに多い巻数の単行本が刊行されている「月下の棋士」の方がもしかしたら有名かもしれません。
やはりその中でもカリスマ性すらある存在感を示すのがこの「哭きの竜」でしょう。
恐らく読んだ人が一応の抱く感想はこれでしょう。
『…?何だかよく分からない』
能條純一氏のフォトリアルな画風で描き出される、「濃い」顔のやくざのおっさんたちが、何だかよく分からない抗争を繰り広げ、バンバン殺し合っている合間合間に「麻雀」の試合が散発的に挟み込まれます。
はっきり言って特に麻雀の試合とやくざの構想が物語上でリンクしたりはしていません。
それでいてやくざたちは単なる雀ゴロであるはずの「竜」を「取り合い」ます。
「サルでも描けるマンガ教室」で露骨にパロディされた、「雨の中で血まみれのやくざが叫ぶ」場面
『竜~!お前の運をワシにくれぇえええ~!』
などは、ある意味「典型的な麻雀漫画の一場面」として今で言う「ミーム」化したそれかも知れません。
大体、「リアルな武力」を持っているはずのやくざたちはどうしてただの麻雀打ちに過ぎない「竜」を取り合うのか。その理由が全く分からないのです。
私も「実は続編がある有名なマンガ」ということで調べて知ったのですが、この「哭きの竜」はそんなに浅いコミックではありません。
「麻雀漫画の歴史を変えた」と言われている重大な作品です。
その功績は多岐にわたるので一つづつ解説していきます。
主人公の「強さ」の理由
何しろ「竜」が連載を開始したころは私は物心ついたばかりの子供ですから、「竜」以前の麻雀漫画がどの様なものだったのかをリアルタイムに読んで知っている訳がありません。
ただ、私が調べたところでは大きく二種類に分類できる模様です。
「小説」という事で言うならば、後に映画化される「麻雀放浪記」を始めとする一連の阿佐田哲也氏の作品があります。
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あくまでも「麻雀『漫画』」の話ね。
パターン1「少年漫画」的な熱血漫画
何しろ非常に地味な「テーブルゲーム」ですので、そこに強引に「少年漫画」の文法を持ち込んで「熱血」展開にするものが一方の主流だったそうです。
パターン2「イカサマ」
囲碁や将棋の様に「実力」以上に「引き運」というランダム(無作為)要素が非常に大きいゲームであるため、必ずしも「強い」プレイヤーが勝つわけではありません。
どれほど「切り方が上手い」プレイヤーであっても「テンホウ(最初から全部揃っている)」をされれば全くなす術も無く負けるしかありません。
『20年間無敗の男』だったとしても、全ての局で勝利したという訳では無くて「〇回戦」とかの「トータル勝利」を続けたという意味でしょう(それでも凄いんですが)。
その為、「麻雀漫画」で「強い」根拠といえば「イカサマ」ということでした。
「イカサマ」というと「卑怯」「卑劣」「ずる」「インチキ」というイメージがあります。
まあ、実際その通りなんですが、一方で「職人芸」でもあります。
組んだ二人でサイコロの目を「2(1と1)」で出して、手元の牌と山を一斉に入れ替える「二の二のテンホウ」で使われる「ツバメ返し」などは特に有名ですね。
「技名」が付いている(!!)くらいですからそれなりのポピュラリティがあります。
いざ「やるぞ!」という合図として「天気の話をする」というくだりが「麻雀放浪記」で描かれたことから、「ムダヅモ無き改革」ではこれの露骨なパロディがあったりします。
自分のツモ筋に欲しい牌を積んでおく「積み込み」を「千鳥」とか「元禄」とか言います。
やれ「ぶっこ抜き」だの「エレベーター」だの「キャタピラ」だの「すり替え」だのと百花繚乱。
アナログゲームにはイカサマが付き物です。牌の裏側などめくる前からその牌が何なのか分かるようにする「ガン牌」や、後ろから相手の手牌を覗かせて手牌を教える「壁」、お互いにサインを出して欲しい牌を伝える「ローズ」など。
ちなみに日本で言う「トランプ(*)」なども「ガン牌」の温床で、カッティング(カードの一部を僅かに切っておく)、「サンディング」(特定のカードの表面をざらつかせて手触りで判別できる様にする)、「スポッティング」(特定のカードの表面に小さな穴をあけて手触りで判別できる様にする)などなどちょっと調べれば幾らでも出てきます。
(*日本で言う「4つのスートの1~13とジョーカー」で構成されるいわゆる「トランプ」は日本独自の呼び方。海外では「プレイング・カード」と言います。「トランプ・カード」は「切り札」という意味になります)
これらは確かに「ズル」ではあるんですが、一種「曲芸」的な面白さもあるため、「麻雀漫画の醍醐味」と見做されており、「強い根拠」はこれらの「技比べ」でもあったのです。
これらの技の多くは「熟練」を必要とします。
自慢じゃありませんが、私なんぞゲームそのものがかなり複雑なものですから「ローズ」みたいに別プレイヤーと組んで合言葉で欲しい牌を教え合うなんて暗号そのものを覚える自信がありません(爆)。
とある作品でこんなセリフがあって印象的でした。
「あんたがたバクチ打ちは『なるべく楽して儲けたい』人種でしょ?なのに何でそんなに一生懸命イカサマ技練習してるのよ。本末転倒じゃない」
…確かにその通りで、「積み込み」を覚える根性と能力があるなら普通の仕事をやってもある程度大成するでしょう。
閑話休題。
では「哭きの竜」こと「竜」は「なぜそんなに強い」のでしょうか。
これが驚いたことに「特に理由は無い」のです。
「ただただ(生まれつき?)運がいい」だけ。
実はこれが『革命的』でした。
確かに竜はその通り名の通り「鳴き」を多用する打ち手です。
しかし、麻雀は「鳴けば強い」ゲームとは単純には言えません。
中国式と日本式では若干論理も役も違うのですが、日本式の麻雀においては「鳴く」ことで「点数が低くなる」役の方が多いです。
また、リーチ(リーチして上がると点数が倍になる)も出来なくなりますし、リーチのみの特典である「裏ドラ」も使えません。
何より、手牌の一部をさらすことになるので、対戦相手に手の内を読まれやすくなってしまいます。
更に、いざ対戦相手のリーチが掛かった場合、「降りる」にしても手牌が少なくなってしまっているのでより選択肢が厳しくなります。
少し麻雀をやり込んだ人ならば、「鳴いてばっかりいる」プレイヤーは「弱そう」と判断するでしょう。
しかし、竜はそんな屁理屈などお構いなし。
どんな無茶な場面であっても鳴いて鳴いて鳴きまくり、勝ちまくるのです。
人は「圧倒的な強さ」に憧れます。
「強さに理屈なんていらなかったんだ!」という「大発見」が為された訳です。
「むこうぶち」に登場する謎の麻雀打ち・傀(かい)にしても、明らかに「竜」の影響下にあります。
「傀」の強さは結局大自然の神秘みたいなもので、論理的に解明されることなど無いからです。ゴルゴ13の出生の秘密が結局解き明かされることが無いのと同じです。
また、私の大好きな麻雀漫画「兎~野生の闘牌~」の「園長」の「豪運」(めっちゃくちゃ運がいい)とかも「竜」が無かったらありえなかったでしょう。
この「理由も何もなく、ただただ運がいいから麻雀に勝つ」という「設定」は思わぬ副作用を生むことになります。
…が、ここで「哭きの竜」の「成立過程」についてのお話を。
やくざの抗争
能條純一先生の絵柄は「フォトリアル」とでもいうべきもので、非常に写実的です。
「能條美女」たちもそれはそれは美しいのですが、やっぱり「やくざ」などの「コワモテ」の男たちのド迫力は他の追随を許しません。
それがもう、「めくってもめくっても」怖くて濃い顔のおっさんたちが顔を歪めて麻雀打ってる場面が延々と続く訳ですから「女子供の読者なんぞお呼びじゃない」というところです。
「読者」もまたみんなこんな感じでしょう(偏見)。
実は能條先生は「哭きの竜」の連載を始める段階では麻雀のルールもよく知らなかったんだそうです。
無茶な話ですが、かの梶原一騎先生も「巨人の星」を始めるにあたって野球のルールを良く知らなかったそうですから似たような物でしょう。
というより、「単に強いだけ」という無茶も極まる「竜」の設定は「麻雀を余り知らないから」生み出せたりしたのかもしれません。
当時、非常に有名なやくざの抗争があり、元はこれを漫画化する予定だったのだそうです。
ところが編集部に「麻雀雑誌なんだから、ちょっとは麻雀に関係のある話にしてくれ」と無理難題を押し付けられます。
だったらそもそもなんで麻雀雑誌でやくざの抗争の話を連載しようとしてるんだよ…って話です。
恐らくですが確かに「読者層」とは合致していたのかもしれません。
「本職」のやくざの皆さんもかなり読んでいたでしょうけど、「週刊実話」を毎週読む様な「やくざファン」(?)の方々と、「麻雀雑誌」の読者層はかなりの程度重なっていたと考えられます。
なので「純粋なやくざ漫画」でも成立はしたでしょう。しかし「一応は麻雀雑誌なんだから」と強引に「麻雀場面」を入れることを要請されます。
結果として「強引に」それらをハイブリッドさせた漫画が爆誕してしまったのです。
そういった経緯があるものだから、鳴きまくって訳の分からん勝利を積み重ねる場面に「脈絡なくやくざの抗争が織り込まれ」る「奇妙奇天烈」な漫画となってしまいました。
ただ、ならばそれがマイナスに働いているかといえば決してそうではありません。
言語化出来ないのがもどかしいんですが「訳の分からない迫力」が紙面を突き破って迫ってくるがごとくです。
「強運の男・竜」
元々一緒になりようがない「やくざの抗争」と「麻雀」。
まあ、確かにやくざは「博打の道具」として「麻雀」は嗜んでいますし、絵面の食い合わせとしては決して悪いものではありません。
これが「トランプゲーム」では「ガキのお遊びか!」という感じになりますが、「丁半博打」などと並んで「麻雀」はやくざと並ぶのに違和感ないどころか非常に「絵になり」ます。
一時期は「麻雀牌」の絵面だけでやくざを連想して「物騒」というイメージすらあったほどです。
とはいえ、ドスだの拳銃だのを手に殺し合っている真っ最中にテーブルゲームが介入できるわけもありません。
そこで「明日をも知れない血で血を洗う抗争に明け暮れるやくざが、わらをも掴む思いで『運』を持つ男」に近づこうとした…という強引も極まる筋立てとなりました。
やくざは案外伝統に対して保守的で、「ゲンを担ぐ」ところがあります。
そういう意味では全く理解できないという訳ではありません。
…しかし、ここで大いなる疑問が湧いてきます。
・・・つまり、どういうこと?
能條純一先生の筆致で描き出される「ドスの利いた」、見るだけで震えあがりそうになる「怖い顔」のやくざたちが、びっしり入った刺青を見せつけながら、盛んに竜に対して。
「俺のものになれぇえええーーー!」
などと言います。
…が、「俺のものになる」というのが、具体的に何を指すのかが良く分からないのです。
まさか恋人か性交渉の相手になれと言っている訳ではないでしょう。
いや、腐女子でないけど、そんな風にしか聞こえない・・・。
麻雀の「代打ち」として雇うというだけでは無いでしょうし、愛人よろしく「囲う」ということなのでしょうか。
そもそも、やくざたちが言う「竜の運をもらう」などという思い込みに全く根拠なんてありません。
仮に三食昼寝付きで「竜」を囲い込んだところで、それによってそのやくざ集団の「運が良く」なるなんて非科学的もいいところです。
実はこの「?結局どういうことなんだよ!?」という「理に落ちない」のが「哭きの竜」の最大の魅力なのです。
かの「新世紀エヴァンゲリオン」は「劇中での原理」を説明してしまえば15分くらいのまとめ動画で全部言えてしまう「設定」をぼかしにぼかし続けて1995年からなんと2021年まで引っ張り続けました。
その間、(特に最初のTVシリーズの最終回において)ファンが言い続けたのが「で?結局どういうことなんだよ!?」という「真相が知りたい」という欲求でした。
これをひたすら引っ張り続けることで興味を持続し続けたのです。
「真相」はどれほど見事であっても明かされた瞬間には「何だそんなことか」となってしまいます。
ミステリアスな魅力を失わせない秘訣、それは「明かさない」ことに尽きます。
とはいえこの匙加減も難しいところで、「単に訳が分からないだけ」であれば読者も視聴者も「訳が分からん」と見放すでしょう。
そうして「謎」を免罪符に意味不明の思わせぶりなだけの展開を続け、尻切れトンボのまま打ち切られたエヴァのエピゴーネンアニメがどれほどあったことか。
「哭きの竜」もまた、「真相」はさっぱり分からないながら、圧倒的な「魅力」で読者を引っ張り続けたのです。
決め台詞
必要最小限のことしか喋らない「竜」は時折非常に印象的な「決め台詞」を放ちます。
最も有名なのが
「あんた…背中が煤(すす)けてるぜ」
でしょう。
テーブルで向かい合って行うゲームの最中に対戦相手の背中なんて見える訳が無いのですが、このフレーズは非常に要所要所で炸裂します。
はっきり言って意味は分かりません。キン肉マンの「屁のつっぱりはいらんですよ」みたいなものです。
「ああ~ん!?背中が煤けてるっちゃどういう意味じゃ!?」
とかなんとか凄むのですが、竜が明確に答えることはなく、その後も鳴きまくって勝つのみです。
恐らく「オーラがねえぜ」とか「死相が見えてるぜ」みたいな意味なんでしょう。
ぶっちゃけある程度読みなれた読者からするとこれが登場すると「いよっ!待ってました!」「麻雀屋!」と声を掛けたくなります。
余りにも不可解な竜の打ち回しに、必死に手を読んでしまって長考する相手にはこう。
「あんた…早く打ちなよ。…時の刻みはあんただけのもんじゃない…」
これは筆者たちの麻雀仲間の間でも多用されたフレーズなので、流石にフリー雀荘では相手に失礼過ぎるので言わないでしょうが、気の置けない「麻雀愛好家」の間ではしょっちゅう飛び交ったことでしょう。
どれほど難しい局面でもパンパンとリズム良く打つのが麻雀なので、非常に応用力のある台詞と言えます。
グダグダと屁理屈を言う相手にはこう。
「言葉が…白けるぜ!」
竜はゲームの進行に関係ない発声はほぼしないので、相手が屁理屈や浪花節を唸り始めるとこういってたしなめてきます。
そう、ハッキリって「戦略的」に参考になることは全く無いタイプの「麻雀漫画」でありながら(第一、局の細かい進行自体も良く分かりません)、「試合」そのものが非常に読んでいて面白いんですね。
何というか「名場面集」みたいな感じで。
そもそもの立ち位置
元祖「哭きの竜」が「全9巻」と聞いて「多い」と思うか「少ない」と思うかは人それぞれでしょう。
今回初めて通して読んだのですが、驚くべき発見がありました。
無印の「哭きの竜」はぶっちゃけどの巻から適当なエピソードを読んだとしても、一話を読み終わった読後感はほぼ変わらない…ということです。
序盤だろうが中盤だろうが終盤に至ってもどの話を読んでも大体同じです。
相も変わらず「怖い顔のやくざが凄んだり殺し合ったりしている場面」と「竜の麻雀場面」が脈絡なく交互に登場し、「竜~」とかやくざがうなって終わり。
しつこいですがどの話を読んでも大体おんなじです。
苛烈な抗争の真っ最中なので「竜」に執着して追い回すやくざたちも次々に殺されたり病死したりして、「代替わり」します。
しかし、「やってることは大体一緒」です。
最終回に至って、遂に竜本人すら殺されてしまってぶっつり終わります。
私たちは後世の常識で昔の創作物を図ろうとしがちです。
例えばアレクサンドル・デュマの「三銃士」。
恐らく「世界の名作」に数えられて、小中学校の課題図書とかにもなっているであろうこの作品は、とにかく次から次へと息もつかせず色んな事が起こります。
実は「三銃士」は「新聞連載小説」だったため、毎回「引き」を作らなくてはならないためにこれほどノンストップになったのだそうです。
そもそも「哭きの竜」だって「麻雀雑誌」に連載されたコミックです。
「麻雀雑誌」を読むのは、熱心な麻雀ファンか、「雀荘の隅っこに置いてあるのをパラパラめくる一見のお客」くらいでしょう。
普段は漫画なんて読まない硬派のサラリーマンか、もしかしてやくざです。
彼らは「前回から続く大河ストーリー」なんて知ったことじゃありません。「その回が面白いこと」が最優先です。
そうして書かれたものをぎゅっと9冊に凝縮して「マンガとして」評するのはもしかしたらズレているのかもしれません。
むしろ「その前後」に掲載されていた風俗の広告とか、「何切る?」のコラムと比較して語るべきなのかもしれません。
「機動戦士ガンダム」に代表される「80年代ロボットアニメ」にしても、新メカの登場タイミングなどは「おもちゃの発売時期」と相関関係にあるに決まっているのに、それらを全く無視して「作品論」をやっている現状に対して色々思うところはあります。
ともあれ、数々の新機軸を打ち出し、「麻雀漫画の歴史を変え」た「哭きの竜」は竜自身も射殺されてしまうという無情な結末で幕を下ろし…たはずでした。
「哭きの竜・外伝」
時代が平成に変わった1990年に「哭きの竜」の連載を終了すると能條先生は
「月下の棋士」(1993年 – 2001年)
を完結させます。
こちらもエキセントリックな言動や濃い造形、印象的なセリフの多い「ザ・能條漫画」というところでした。
将棋界もまた魑魅魍魎です。
大山康晴先生や升田幸三先生などをモデルにした「棋士」たちは「哭きの竜」の登場人物の「やくざ」たちにも全く引けを取らない「濃いキャラ」で読者を圧倒しました。
ただ、ランダムな「引き」勝負になる麻雀と違い、将棋は「二人零和有限確定完全情報ゲーム(ふたり ゼロわ ゆうげん かくてい かんぜんじょうほう ゲーム)」といって、分かりやすく言えば「運の要素」がゼロです。
完全に「実力のみ」の世界。
色々な偶然が積み重なった奇跡みたいなマンガであり、逆に「ギリギリ許されていた」くらいの「哭きの竜」に比べると「月下の棋士」は当然「理に落ちて」います。
だって「将棋」では「ムチャクチャに強い」ことが「理論上」ありえるからです。
現実の藤井竜王名人をみれば分かります。
しかし、「引き運」が非常に大きくからむ「麻雀」においては「絶対負けない」レベルで強いというのは決してありえないのです。
だからこそ「ありえない」からこそ「実際にムチャクチャ強い」ことが神秘的なのです。
その分、「名人(という概念)」に「取り憑かれた」としか言いようのない滝川のエキセントリックさ「のみ」が読みどころだったかもしれません。
曰く、「名人になる様な人間は非常に運がいいので、ちょっとやそっとのことでは死なない」と、目をつぶって交通量の多い道路を横切るも、車の方が勝手に避けてくれて無事に渡り切れる…とかそんな具合(運転手の皆さんご迷惑おかけいたしました)。
なんと連載終了から25年以上を経て『哭きの竜・外伝』が連載再開となりました。
恐らく「月下の棋士」を読んだ読者から「これもいいんだけど、やっぱり『哭きの竜』だよなあ」みたいなことを散々に言われ続けていたのでしょう(かくいう私も言っていた気がします)。
では、その満を持して登場した「続編」はどうだったか。
じわじわ広がる違和感
そもそも「外伝」などというコミックが、本編と同じ巻数の9巻も続いていたことを知っているかつての「哭きの竜」ファンって案外いない気がします。
「外伝」というタイトルなのに内容は完全に「続編」となっていました。
死んだことになっていた「竜」が実は生きていて…から始まるやくざたちの竜をめぐる攻防戦。
印象的な「能條節」は健在で、「相変わらず面白い!」と思わせてくれます。
ただ、「何かが違う」のです。
終盤に至ると、なんとポッと出の新登場女キャラが「カイジ」顔負けの「デスゲーム」に参加させられる「ありがち麻雀漫画」の展開となります。
あろうことか、その女を助けるために「竜」が派遣されて…などという展開となっていくのです。
「違う」原因がハッキリ分かりました。
それは、元祖「哭きの竜」で下敷きにしていた『山口組から反竹中派が独立して一和会を結成した事に端を発した「戦後最大のヤクザ抗争」と言われた山一抗争』に相当するものがこの「外伝」には無いのです。
単に普通のやくざたちが竜をめぐって争っているだけ。
「哭きの竜」で印象的なのは、リアルタイムで進行しているはずの盤上とは別に「〇月×日、△が◇された…」みたいなナレーションが入ること。
時系列がムチャクチャになってしまっているため、読者は今観ているのが幻想なのか何なのかすら分からなくなってしまうのです。
数ある麻雀漫画の中でもとりわけ「哭きの竜」が幻想的な読後感を残すのは、「実録やくざもの」と強引に組み合わせてしまった「弊害」によるものだったのです。
もっと言えば、サクサクと実際に起こった出来事を「消費」していかなくてはならない関係か、とにかく登場人物がどんどん死んでいく「竜」に対し、「外伝」は本当に死なないのです。
どう見ても頭を打ちぬかれていたり、死んでいる様にしか見えない人物が「実は生きていた」ことが何度も何度も続くうち、どうしても「甘い」作風に違和感が湧いてきます。
感情移入も何もない状態で唐突に殺されて二度と出てこない人物たちのあの「乾いた」読後感がここにはありません。
強引にでも「何らかの歴史的事件(出来れば数年に及ぶ)」とハイブリッドさせるべきだったと思います。
決してつまらない訳ではないのにじわじわと広がる違和感は、折角出したオリジナルキャラクターたちを殺すのに忍びないのか大事に大事にし、時系列も綺麗に整備されていることによるものだったのです。
自家撞着
時を経て「哭きの竜」の名声は少なくとも「裏社会」においてはかなり広まっていた模様で、「あの有名人の竜と打ったぜ~!!」とはしゃぐようなのも出てきます。
また、「竜の幸運にあやかる」というのは、少なくとも私が読む限り、元祖「哭きの竜」において一部の親分が言い出した「世迷いごと」という位置づけだったと思います。
あれだけ勝ちまくる竜のことですから、恐らく相当「オーラ」みたいなものはあるのでしょう。
しかし、「竜を手に入れれば幸運になる」ことがあたかも「規定事実であるかの様に」その論理でお話が進行するのはかなり違和感があります。
「何言ってんだ!?」という疑問だらけのまま進行するのが良かったので、それが設定として固着するのはどうなんでしょう。
実際、竜に係った人は軒並み竜に執着するあまり身を持ち崩したり殺されたりしている訳で(アゴ除く)、むしろ「疫病神」なんじゃないかと思うんですが…。
申し訳ないのですが、自分で描いた設定に縛られている様にしか見えません。
2016年『哭きの竜〜Genesis〜』
現時点ではこれが最後の「哭きの竜」ということになります。流石にこれ以上描かれることは無いでしょう(例外は後述)。
竜の視点ではなく「謎の麻雀打ち・哭きの竜」を追うルポライターの視点で描かれる「記念企画」でした。ですのでこれは単行本1冊分のみとなります。
正直言って良くも悪くも「普通の麻雀漫画」です。
ルポライター自身がこんな取材をするくらいなのでかなりの程度「打てる」ことに関してはまあ、いいでしょう。
ただそれが大河ドラマよろしく実は関係者とは元から人間関係があって…みたいなことになってしまうと「疑似ドキュメンタリー」みたいな前提が崩壊して、「哭きの竜も出て来る普通の麻雀漫画」になってしまいます。
もっと徹底して突き放すべきでした。
この「謎の麻雀打ちを追う」という「ジャーナリストの視点」から描いた物語としては「むこうぶち」の中に実にうまく成功しているエピソードが幾つかありますのでそう言うのを読みたい方はそちらで。
ただ、これらの作品が存在していたからといって、元祖『哭きの竜』の価値はいささかも毀損するものではありません。
竜のパロディキャラ
恐らく麻雀漫画界で「竜」ほどパロディされたキャラクターはいないでしょう。
特に単行本化もされないような、描き捨ての「麻雀を扱った漫画」などでは作画をそれ風にした「竜っぽい」キャラクターなんて下手すりゃ「ポピュラーな存在」です。
言ってみればその「非公認パロディキャラ」の筆頭が先ほども名前を出しました「サルでも描けるマンガ教室」の「麻雀漫画」の回でしょう。
作者の竹熊健太郎・相原コージ氏の両方とも麻雀を全く知らないので、徹底的な「麻雀漫画あるある」のみで構成されています。
セリフも展開も適当極まる代物で「リーチ一発ポン、タンヤオドラドラ倍満」とか「麻雀漫画で何となく読んだことがある」用語を適当に繋げてるだけ。
大体「リーチ一発ポン」とは何なのか。
「何も書いてない真っ白な牌」は「幾つか無くした時の予備」とかアホらしさも極まる台詞のオンパレード。
ただ、メタフィクションの会話も多い同作によると「麻雀を知ってる人にかえって受けた」とのこと。
そんな中、なんと「🄫能條純一」という「公認の証」を付けた麻雀漫画が存在します。それが「覇王」
この世界に残された最後の漫画のフロンティア(???)である「何でもあり」の「麻雀漫画」において、「史上最高の麻雀打ち」を決定するための大会が行われます。
実在の人物ばかりですが、多くがもうお亡くなりになっているのがポイント。
それこそ「モハメド・アリ」と「井上尚弥」を対戦させるみたいな「麻雀ドリームマッチ」ものと思って下さい。
強引に言えば、アニメも好評放送中の「終末のワルキューレ」みたいなものです。
人間と神を代表者を一名ずつ出してタイマン(1対1)勝負をさせる(勝てるか!)…という『中学生男子の発想』みたいなマンガで、「ゼウス対アダム」とか「トール対呂布」「シヴァ対雷電」みたいな対戦カードが続々と実現します。
現役バリバリの麻雀打ちたちが、大幅にアレンジされて続々と登場します。主人公とそのライバルだけは架空の人物ですが、これは「スーパーロボット大戦」シリーズみたいなものでしょう。
「週刊少年ジャンプ」に連載されたコミックが人気が無くなるとすぐトーナメントをやって延命するどころか大人気になってしまうことからもお分かりの取り、古今東西「男の子」たちは「戦い」が大好きです。
「漫画サツドウ2巻までにみる黄金パターンと北斗の拳」の記事はこちら
この「覇王」も「麻雀ファンの居酒屋のダベリ」みたいな内容を思いっきりアレンジして漫画化したみたいなものです。
ただ…問題というか「ポイント」が登場人物が「実在の人物とは限らない」ということ。
…そう、「竜」が登場するんですよ。
なんというか、井上尚弥とあしたのジョーが対戦するみたいなというか(ジョーくらいじゃ瞬殺されるでしょうが)、大谷翔平とドカベンが対戦するみたいなとうか…。
ある意味においてアホらしさも極まるながらも夢のある展開。正に「スーパーロボット大戦」とか「アベンジャーズ」の世界です。
とはいえ、それらも「架空の人物と実在の人物を対戦させ」はしなかったでしょうが。
実は単行本化されていない部分において、更になんと「あの人」まで引っ張り出してしまいます。
そう「20年間無敗の男」「雀鬼」こと「桜井章一」氏です。
どうも状況証拠からするとこれでメチャクチャ怒られたみたいで、連載は中断、未単行本化部分を大いに残したまま現在に至ります。間違いなく続きが描かれることは無いでしょう。
…まあ、「竜」がどれほど麻雀ファンに愛されたアイコン的キャラクターなのかが分かって頂ければいいです。
まとめ
現在の「洗練された(?)麻雀漫画」を読みなれた読者だと
「何だかよく分からないけど、怖い顔の男たちが何となく麻雀打ってるっぽい雰囲気のザ・麻雀漫画」
みたいに見えるかもしれません。
これは「刑事ドラマの時代を変えた」とされる「踊る大捜査線」を見た当時の視聴者が、一時代前の「太陽にほえろ」を小馬鹿にするみたいな構図です。
実はその「太陽にほえろ」はそれ以前の刑事ドラマに対して「画期的」に新しいドラマの代表だったわけです。
「哭きの竜」も同じで、仮に「どっかで見たことがある麻雀漫画」であると感じられたならば、それは「竜」の影響下にある作品がそれくらい浸透したということです。
映画「ブレードランナー」を見た若い人が「どっかで見たことがある様な場面ばっかり」と言った…という都市伝説がありますが、まあそんな感じです。
今現在「哭きの竜」を読もうという読者は懐古趣味か研究者か…という感じですが、「何にも似ていない」独特の酩酊するような雰囲気のこのコミックは万人受けはしないでしょうが間違いなく人を惹きつけるものがあります。
長文読んでいただきありがとうございます!「哭きの竜」おススメです!