漫画「サイレントメビウス」 全12巻完結・感想(BW)後編
※この記事は、ラストに関してのネタバレあります。
それでは感想の続きをどうぞ。
感想は、引き続きBWが書いています。
感想(後編)
当時、一種の「お祭り」コンテンツであったこと
それこそ当時星の数ほど発売されたサイレントメビウスの「キャラクターソング」やら「番外編ラジオドラマCD」などではしゃぎまくるキャラクターたちを「消費」するためのツールであり、一種の「お祭り」コンテンツであったことを評価すべきです。
結構格好いいことを言う彼女たちは、エピソードの度にえらいピンチに陥り、あられもない格好をさせられます。
人聞きの悪い表現をするならば、萌えキャラのキャットファイト、泥レス(泥んこプロレス)というところ。
本編では露骨な表現こそありませんが、グラビアアイドルの萌えキャラ版というわけ。当時どれくらいエロパロ同人誌が作られたかは…考えるまでも無いでしょうね。
ならば現在においては見るべきところが無いのか?…と言われると…残念ながら、現代の最新コンテンツを押しのけてまで見る意義は高いとは言えないと思います。
この評を書くにあたって本編以外にスピンオフ連載された「前日談」「番外編」なども入手しようとしてみたのですが、多くが絶版状態でした。
旬のもの(当時の空気感の中で当時に消費することに最大の意味がある)ということなのでしょう。
本編そっちのけで「前日談」だのがやたらと発展するのも当時のオタクコンテンツあるあるです。
そもそも本編を読み切った人すら少ないのに、カタログ的にそのあたりのデータだけ抑えることに余り意味はないだろうと断念しました。
あの装丁が印象的なのに、やたらを判型を変えて出版し直されるため、複数種類のバージョンが存在するのも余りいい傾向とは言えません。
特にこうした「愛蔵版」などは表紙が新規に描き直されることが殆(ほとん)どなのですが、全盛期からは「絵柄」が大きく変貌を遂げてしまった「先生」方が多いので、割と冗談でなく「当時のイズムを完全再現した新規装丁」を『現役バリバリの新進気鋭のかつて大ファンだった』イラストレーターとかにお願いした方がいいと思います。
ほぼ間違いなく「サイレントメビウスの単行本の想定っぽさを再現した同人誌」は当時は物凄い数が出ていたはずです。それくらい印象的でしたから。
割と冗談でなく、そういう装丁で再発売されたなら、もう一度買いますよええ。
今は印刷コストも掛からず、中古で出回ることも無く、在庫を置くための倉庫も必要ない「電子書籍」という手段だってあるのです。
(さらにいうなら、当時のコミックスそのままの表紙なら、紙でなく電子書籍で買ってました。これはどの漫画にも言えることで、古参ファンは版を変えても「当時の表紙」のものが欲しいのです。当時のカラー表紙を、内表紙にでもいいから入れて欲しい。どの出版社にもお願いしたいくらいです・・・)
リバイバルコンテンツそのものに対して言いたいのですが、ファンが見たいのは「本人」のそれではなくて、「限りなく本物っぽい」フェイクだったりします。
だからこそコミケで『同人誌』があんなに売れるわけです。エロパロだけではなくて、「そっくりに」描かれた別物を楽しめたりします。まあ、著作権などから、どこまで行ってもアングラ文化なのですが。
恐らくは、本編の終盤を読むよりも、コミックス1ー3巻出版くらいの絶頂期に発売されたサイドストーリー等々を読んだりした方が当時の雰囲気が掴めたりするのでしょうが、読む順番を出版年数から割り出して再現する手間を読者に掛けさせるのは望ましいとは言い難いです。
「スター・ウォーズ」を味わい尽くそうと思って「エピソード1」ではなくて「ホリデー・スペシャル」をありがたがるみたいなもんです(微妙な表現でスミマセン)。 とはいえ「エピソード1」よりも「メイキング・オブ・スター・ウォーズ」(まだダースベイダーが父だという設定が明かされていない時期に製作されているため、レイア姫ことキャリー・フィッシャーがベイダーのことをボロカス言ったりしてる)とか「ポルターガイスト」(当時の「スター・ウォーズ」少年たちのグッズが並んだ部屋が映る)を見た方が「当時の空気が味わえる」のは否定しませんが。
そもそも「11年」という連載期間はどう考えても長すぎでした。
かの「ザ・ビートルズ」も実質的な活動期間はたったの4年だそうです。
オタクは移り気なので、新しい魅力的なコンテンツが登場すればさっさとそっちに乗り換えてしまいます。
今より遥かにアニメの本数が少なく、時代的に「オーパーツ」であり「オタクの妄想を具現化した」夢のコンテンツ「サイレントメビウス」であれ、待てど暮らせど「本編」が進行する気配がないのではどうしようもありません。
出版社のお家騒動などもあり、「進行中でありながら本編の連載中断期間」が長すぎました。
「サイレント」の功績もあって漫画家として売れっ子になっていた麻宮騎亜氏は「コンパイラ」といったギャグマンガや「怪傑蒸気探偵団」といった少年漫画も手掛ける様になります。
当時の読者が「そういうのいいからさっさとサイレント終わらせてくれー!」と思っていたこともまた書くまでもないでしょう。
(「コンパイラ」などのワルノリの楽しさを見る限り、麻宮騎亜氏の活躍すべきメインのフィールドは「サイレント」の様なSF超大作大河ドラマよりも、ショートでコンパクトなパロディギャグ漫画あたりが適正な気もします)
その「本編」は進行すればするほど「鬱展開」になっていき、はっきり言えば「何がどうなってんだかよく分からん」ことになっていきます。
元々「キャラの魅力」に支えられていた作品であるため、主要登場人物が死亡したり、主人公が闇落ちして敵側に寝返ったりし始めると、「読み続ける意義」は限りなく薄くなっていきます。
そもそも絵柄の変化も著しく、あんなに可愛かったキャラが面影も留めていない有様になります。
1コマも疎(おろそ)かにしないほど描き込まれ、あっちこっちに設定だの作者の独り言だのが書き込まれまくっていたあの『ちょっとウザい作風』もすっかり影をひそめてしまい、後半の「ひたすら大コマでだらだらと鬱展開を引っ張る」有様は「あの頃も今や懐かし」というところでした。
それこそ回が切り替わる度に行われるキャラ駄話とかもっと読みたい!
同じ漫画とは思えませんでした。
思うに「サイレント」はあの序盤の3巻くらいまでの「スーパーマニアック漫画っぽさの誇示」『超大作ごっこ』こそが存在意義であって、その後の大河ドラマは「引き伸ばしすぎ」だったのかもしれません。
単行本は全12巻存在するのですが、私を含めた多くの読者は7~8巻くらいまでは「惰性」でどうにかしがみついていても、その後はもう見放していたことと思います。
その為多くの読者は、途中で登場した「中華娘」が存在していたことも知らないでしょう。
そもそも各巻の販売スパンは1年ほどは待たされるので(11年で12巻)、待てど暮らせど次の巻が来ず、いざ発売されてももうそろそろ「前の展開を忘れて」いたりします。
人間、数年も経てば周囲の環境は激変します。
ましてや多くが思春期であろうオタクともなれば、中学生は大学生になり、大学生は社会人になったりしています。
引っ越しもするでしょうし、結婚したりそりゃあもう色々あるでしょう。
そんな時に年に1冊しか発売されない上に急激に吸引力の弱まったコミックを同じ熱量で追い掛けられるかと言えば書くまでもありません。
仮にそうしたものに夢中になれる期間が人生の中で「20年」(10代~30代)くらいだったとすると、その半分は待たされている訳です。
かくいう私もイモ臭い田舎のイキりガキだったものが、上京して専門学校に行き、アニメの撮影という「業界」の末席を汚すまでになっていました。 正に「激変」です。
恐らくは、当時の全ての読者がそうだったでしょう。
世の中は愈々「新世紀エヴァンゲリオン」(1995(平成7)~1996(平成8))も登場し、翌年の劇場版も含めたフィーバー状態。
「アニメはいける!」と判断されたのか週の新作アニメが80本を超える狂乱のアニメブームが訪れ、放送枠が足らなくなったアニメは遂に「深夜アニメ」へとはみ出していくことになります。
当時のアニメファンは、次々に繰り出される「エヴァンゲリオン」フォロアー、エピゴーネンアニメに夢中になっていました。
正直この時期は「サイレントメビウスってまだ連載やってたの!?」と言う感じでした。 「時代の最先端」は「旬のもの」であるため、爆発力はありますがその分「腐るのも早い」と言えます。
「一時代前の時代の最先端」は次の世代ではある意味においては「最も痛い」ものにすらなり得るのが恐ろしいところです。
2007(平成19)年から始まる「新劇場版」で再評価の機運が高まり、先日完結を迎えた「新世紀エヴァンゲリオン」は2000年代前半には「全く見向きもされない」存在でした。
確かにキャラグッズなどは細々と発売され続けていましたが、1997年の劇場版で冷や水をぶっかけられたオタクたちは「思い出したくもない」時期が長かったのです。
2000年~2004年に「オタク第三世代」を生々しく描いたコミック「げんしけん」において、あれだけ「ガンダム」の名前は出て来るのに「新世紀エヴァンゲリオン」の名前が全く出てこないことから当時の空気を察していただければ幸いです。
放送当時リアルに14歳だったオタク大学生でエヴァに影響を受けていないことなど全く考えられないのに「触れないこと」になっているのです。「触れたくもなかった」「幼少期のオタク黒歴史」という立ち位置だったわけです。
私が改めて「サイレントメビウス」を全て読んだのが今年(2023(令和5)年)ですから、なんと完結から24年も経過していたのです。
それも「比較的生活に余裕が出たし、読んでみるか」と思ったからで、仮に最後まで読まないままだったとしても特にこれと言った痛痒(つうよう)は感じないまま人生を終えたことでしょう。調べてみると結構行われている再版、舞台化、番外編の連載などもアンテナに引っ掛からなかったみたいです。
というより、これを読んでいる当時の読者諸氏においては「ちゃんと完結出来てたんだ…知らなかった」という感慨があるかもしれません。
今、改めて読んでみると。
改めて読んでみると、当時キャラ人気でいえば間違いなく首位争いをしていたであろう「彩弧由貴(さいこ ゆき)」などは漫画版においてはただただ「あわあわ」しているだけでほぼ何もしていません。
「漫画だけ」で判断したならば余りにも印象が薄くてキャラの名前も思い出せないかもしれません。
ならば「普通のOL(警察官)」としてならば優秀なのか?といえば当然違います。
彼女に「余人をもって代えがたい」特殊な能力でもあるのならばともかく、キディのバカ力、レヴィアのハッキング能力、那魅の妖術などの「際立って強い」能力を持っているとも到底思えません。「超能力」が演出的に使いにくいということは考えにくいのですが…。
まあ、あの『電脳都市のど真ん中で「呪文を詠唱」して敵を倒す』厨二病キャラが周囲に溢れている状態だと、単なる(?)超能力では「地味」なのかもしれません。
また、全12巻の終盤のクライマックスは確かにスケールの大きな「ラストバトル」が描かれはするものの、「知り合い、身内同士の痴話げんか」の意味合いも大きく、どうしてもそのスケールを実感し辛いものがあります。
そもそも「普通の人間サイズ」である味方に対し、「天を突く」巨大な怪物なんてまともにやったらまず勝てる訳もなく、「勝つための論理」が必要なのに、「結局は気合で勝つんでしょ?」としか思えませんでした。実はぶっちゃけ「サイレント」の戦闘描写はそれほど緻密ではないのです。それよりも、キャラクターの可愛さが大事。
映画「サイレントメビウス」の思い出と80年代の「アニメ映画」
そもそも「キャラクターの魅力」「凝りに凝りまくった設定」こそ命の作品であるため、申し訳ないのですが「ストーリーは二の次」でした。
これは当時の「劇場版」に顕著です。
劇場アニメは第1作目「サイレントメビウス」が1991(平成3)年8月17日公開。「アルスラーン戦記」との併映であるため、全体が54分というコンパクトな「映画」です。
翌年にはもう「サイレントメビウス2」(1992(平成4)年7月18日)が公開されますが、これまた「アルスラーン戦記II」「風の大陸」との併映のため58分です。
正直、この時点でそれなりの原作分量があるため、「映画」とはいうものの本編を完全アニメ化することは最初からあきらめており、「前日談」となっています。
正直「ビデオクリップ」の長い物というところ。 設定をがっちり知悉(ちしつ)している必要があり、「一言さんお断り」のファンアイテムであり、ファンイベントの上映素材であれば…と言う立ち位置です。
私は劇場に観に行きました。 当時オタクを集めて行われた公開記念イベントはそれはもう盛り上がったそうです。きっと声優さんや原作者、監督などを集めて華々しく行われたことでしょう。
しかし、映画本編は主人公の加津美がひたすら泣いて叫んでいるだけであんまり続くものだから観ていて痛々しい気持ちにしかなりませんでした。
1991年という「最も盛り上がっていた時期」であることもあり、それなりに期待して劇場に行ったものですが、「…そもそもサイレントメビウスの面白さって何だったっけ?」と思わざるを得ませんでした。
少なくとも原作漫画などを一切知らず、この映画だけ見た人が熱狂的にはまり狂うとは到底思えません。
恐らく当時の劇場で熱狂した人々は「あのキャラがアニメになって動いている!」ことに感動していたということだったと思います。
であるならばそもそも「この長さしかない」んだし、最初からキャラ全員集合で楽しくド付き合う「日常の合間のギャグ」路線で良かったんじゃないかと思います。
どうせファンしか観に来ないんだから。
が、実は「ちゃんと凄いものを観たい」願望もまたあったりするのでややこしいところなんですよね。
劇中、主人公の加津美が「自らが妖魔(ルシファーホーク)に由来を持つ」ことを知って絶望する展開がありますが、観客には妖魔(ルシファーホーク)が単に「敵キャラ」以上の属性を教えられていないため、ショックが伝わってきません。 とはいえ、ならばちゃんとやればいいかと言えばそれだと重すぎるので、…申し訳ないんですが余り深く考えていなかったのでしょう。
ただ、当時はアニメと言えばTVアニメであり、劇場作品単体で『作品』たりえていたのはほぼ「スタジオジブリ」オンリーと言って良い状況。劇場アニメはほぼ全てが「TVの総集編」「TVの特別編」でした。
「時をかける少女」や、何と言っても「君の名は。」以降の単体で独立して作品としてのクオリティを担保している「アニメ映画」作品が出始める遥かに前の時代なのでその点は割り引いて評価して欲しくはあります。
実は「機動警察パトレイバー 劇場版」「同2」といった凄まじい作品もあったりするのですが、当時のアニメ映画の悲しさで「TVアニメの特別編」といった立ち位置を脱することが出来ず、「単体で『これだけ見れば分かる』独立した作品」とは言い難いものがあり、その評価はアニメファンの間のみに留まっていました。
そもそも80年代の「アニメ映画」などまともな評価の対象とはされていませんでした。 質にも一切関係なくです。
今では「名作」としてゆるぎない地位を築いている「ルパン三世 カリオストロの城」などは余りの大赤字ぶりに宮崎駿・大塚康夫コンビはしばらく仕事を干される羽目になりましたし、「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」などは大赤字映画でした。
初めて黒字になったのが、タイトルに「宅急便」を使うためにヤマト運輸と提携し、文部省選定まで取りつけた「魔女の宅急便」からです。
後に名作として評価の定着するスタジオジブリ作品ですらこの有様ですから、「オタクしか観ない」マニアックアニメなんぞ「映画」とすら思われていなかったでしょう。
印象的なエピソードとして、劇場版を観に行った際、閑散としていた客席で目の前に座っていたひょろひょろにやせ細ってメガネを掛けたいかにもなオタク氏が、「主題歌(メインテーマ)」を画面にあわせて口ずさんでおり、一緒に観ていた弟と劇場を出た後「あいつは一体何だったんだ!?」と盛り上がったことがありました。
今にして思えば「なんとかこのアニメがもっと盛り上がって欲しい」という熱烈なファンだったんだろうと推測は出来ます。
この時の映画はその後が作られることも無かったのですが、単行本12巻(最終巻)の巻末座談会によるとやはり「角川書店のお家騒動」(検索してね)が大きく影響していたとのこと。
後述しますが、これが無ければ映画の「3」とか、当時にテレビアニメ化もなされていたかもしれず、非常に惜しいと言えます。
忘れていた頃、唐突にTVアニメが始まる
そしてその約10年後、原作完結寸前(ということはすっかり忘れていた)1998(平成10)年4月に唐突にTVアニメが始まります。 (この頃の空気感を説明するのは難しいのですが、1995~1996の熱狂的なエヴァブームが1997年の「夏エヴァ」で完全に鎮静化し、「祭りが終わった」という何とも言えない空気が漂っていました。
にもかかわらずエヴァによって喚起されたアニメブームはすっかり定着し、放送枠が広がり、作品数も爆発的に増えている…にも拘らず、エヴァに匹敵するカルト的な魅力を持つヒット作が登場している訳でもない…という「エヴァの頃は良かった…」状態と言う感じでした)
1998(平成10)年4月7日から同年9月29日までテレビ東京系で全26話。
この時の空気感はもうアニメ会社で撮影として働いていた私の先輩が言い放った一言に全て集約されています。
「おいおい、今は1998年だぞ!1988年じゃねえんだ!」
これは同時期に「ロードス島戦記-英雄騎士伝-」(1998年4月1日から9月30日。全27話)というこれまた「遅れてきたTVアニメ」があったことも関係しています。
ちなみにこのアニメは最もポピュラーで「ロードス島戦記といえば」のパーンやディードリットたちが主人公ではなく、原作3~4巻のアニメ化でした。
一応OAVとして既に描かれはしていたものの、あれだけ待たされて「次世代」のお話ということで、みんなずっこけたもんです。閑話休題。
要するに「TVアニメにするには10年遅かった」という事に他なりません。完全にこの時点では「過去の作品」でした。「そんなのもあったなあ」という。
未完ではあったものの、そもそも未完なのかどうかも当時のアニメオタクの大半は興味すらありませんでした。
そして申し訳ないんですが、作画的にはかなり辛いアニメでした。最も気合が入るはずのオープニングからしてキャラが全く似ていない上に余り可愛くありません。
そもそも原作漫画を描いているのがアニメーターである上、少なくとも原作の絵柄にかなりの程度忠実に作られた「劇場アニメ」が存在している以上、「キャラが可愛くないこと」への言い逃れは出来ません。
一定数存在する『猛烈にアニメにしにくい特殊な絵柄の漫画』とかいう訳ではないのです。
「キャラクターの魅力」が命綱というか、極論すれば「それしかない」のですからこれは致命的です。
本編も、申し訳ないけど「どうにか頑張ってアニメにしている」と言う感じで、高密度に描き込まれたこのごろ(2020年代)のアニメとは比較になりません。
恐らくなのですが、まだ「エヴァ」以降の「狂乱のアニメブーム」が続いている頃なので「何でもいいからTVアニメになりそうなものを持ってこい!」という事だったのではないかと思います。
そこで目を付けられたのが「そういえばそんなのもあったな」立ち位置として非常に『手ごろ』な「サイレント」だったということでしょう。
そろそろ「深夜アニメ」も増えてくる頃(深夜アニメの元祖は劇場版に伴って深夜に行われた「新世紀エヴァンゲリオン」再放送が高視聴率だったことを得て行われた「エルフを狩るモノたち」(1996年)から)で、腕利きのスタッフたちが分散させられ、はっきり言って「ひいひい言いながら」アニメを作っていました。
ちなみに「作画崩壊」の代名詞である「ヤシガニ屠る(ほふる)」を含むアニメ作品「ロストユニバース」は正にこの時期(1998年4月3日から同年9月25日まで)に放送されています。
仮に「サイレントメビウス」が1991年ごろに劇場アニメのみならず「TVアニメ化」されていたならばさぞ盛り上がったと思います。
たとえ映像技術や作画の質が低かったとしても、「当時に放送される」ことが第一に大事でした。
超ハイクオリティだったとしても1998年では全く手遅れでしたし、遅れてきているのにあのクオリティなのですから推して知るべし…です。
あれだけ一世を風靡したコンテンツが時代が下って、「とりあえず確保したアニメ枠の埋め合わせとして丁度いい原作」として扱われているのは正直悲しくなったものです。
当時「女性をリアルに描こう」と意欲を見せている漫画だった
さて、もう少しだけ連載開始当初の1988(昭和63)年ごろの「情勢」について触れてこの評を締めくくりたいと思います。
少しインターネット評を探してみたのですが、やはり現代の読者が現代の目で見て「つまらん」と一刀両断している例が非常に多いです。
それも個人ブログのまとまった評とかではなくて、映画や漫画評論サイトの「書き込み」程度しか見つかりませんでした。
仮に1988年当時にインターネットがあったなら間違いなく「サイレントメビウスのファンによるホームページ」が乱立していたでしょうに。
確かに「進撃の巨人」だの「鬼滅の刃」だの「チェンソーマン」だのが溢れかえっている現代の目で見れば満足度は足らないかもしれません。
「アニメーター」が描いた「漫画っぽいもの」…と言われればぐうの音も出ません。
しかし、この漫画には「キャラクターの魅力」「可愛さ」だけでなく、当時としてはもう一つ、漫画表現としての新しい試み・意義があると思っています。
それは、当時、他の漫画で描かれていた女性とは違う、ということです。
現在、TVアニメ「機動戦士ガンダム 水星の魔女」(2022(令和4)年10月2日~)が評判になっていますね。
ガンダムのTVシリーズとして初の「女性主人公」です。
実は小説版などでは女性が主人公となったガンダムシリーズもあるんですけどね。
「ガンダム」に取り入れられることこそ遅かったものの「どう考えても男性向け」作品に「女性が主人公となる」例は80年代にはぽつぽつと登場し始めていました。
代表的な例が「機動警察パトレイバー」です。 私も本稿で調べてみて初めて意識したのですが、なんと漫画版の連載開始は「サイレントメビウス」とほぼ同じ1988(昭和63)年です。
メディアミックスとして漫画版が連載され、「本体」である初期OAVシリーズ(現在は「アーリーデイズ」と呼称)の発売もまた1988(昭和63)年となります。
この1988(昭和63)年は色々とターニングポイントになる年なのかもしれません。
これまで意識したことはありませんでしたが。
「パトレイバー」主人公の泉野明(いずみ・のあ)はこれと言って「少女である」特徴が劇中の展開で「どうしても必要となる」存在とは言えません。
敢えて言うなら「どうせなら女の子の方が華があって可愛いから」くらいの理由でしょう。
これは決して小さくない変化です。
これまで「少年向けコンテンツ」においてどうしても「女の子」は脇役の存在でした。 それが「特に意味なく主役」なのです。ロボットアニメですよ?
改めて「サイレントメビウス」の1巻を読んでみると、これがいかに「可愛い女の子を描き出すための」作品かよく分かります。
表現が難しいのですが、業界自体がまだまだ若く、(男性向きコンテンツの中で)「可愛い女の子をじっくり描く」ことに対しての戸惑いとそして喜びが満ち満ちています。
当時「同人市場」は部外者から見れば想像できないほど大きくなってはいましたが、まだこの当時はそもそも「漫画が描ける」ことそのものが「選ばれた特殊技能」でした。
ましてや不特定多数に発表の機会を得られるなど。
どれほどマイナーであっても出版社から出版されて本屋に流通する「雑誌」のステータスは現在とは比べ物にならないほど高かったのです。
どうしてあんなに「サイレント」の序盤の欄外で作者自身が「これでもか」というほど「キャピキャピ(死語)」はしゃいでいるかは、当時の空気を知っていないと分かりにくいでしょう。
なんというか、アニメオタクが男なのに(男だから?)アニメの美少女の絵ばかり描いて悦に入っているあの感じです。分かってもらえるかなあ。
今も「野生の神イラストレイター」がSNSに美少女絵あげてるでしょ?
スターアニメーターになって日々アニメ美少女を自らの手で紡ぎだせるのみならず、キャラクターデザイナーとして一世を風靡するなんて夢そのものと言えます。
もう一部では「格好いい」よりも「可愛い」価値観が上回り始めていたのでしょう。「DAICONフィルム」などを観れば分かります。
遂に彼らは添え物としてのアニメ美少女では飽き足らず、主役に据え始めます。
オタク俗語では「ガワだけ女(がわだけおんな)」と言います。
要するに見た目は女だけど、パーソナリティや考え方はまんま男性作者のそれであって、見た目が女なだけ…ということです。
要はオタク的な願望として「可愛い女の子(たち)をひたすら愛でていたい」という傾向の先駆けだったということです。
(これに先駆ける企画としては、雑誌連載企画からOAVとして製作され、後に劇場公開された「ガルフォース ETERNAL STORY」と言う例がありますが、これが1986年と2年前。そういう時代だったんですね)
現在は「日常系」で可愛い女の子たちがいちゃいちゃする「だけ」のアニメなどもあり、俗に「美少女動物園」と揶揄されています。
ただ、それ故に…と言う訳でもないのでしょうが、「ブレ」があります。
それこそ「単に主人公が美少女だと画面が華やぐから」と完全に割り切ってしまえばそれはそれでありだと思います。余り現代のアニメを見るほうではないので何とも言えませんが、そういうアニメもかなりあるでしょう。
どれほど「可愛い女の子を見る」ことが好きだったとしても、読者や視聴者の男性の大半は別に「本当に女の子になりたい」訳ではありません。
「いやなりたいぞ」という外野の声が聞こえてきそうです(爆)。
ならば日常の話題として「メイクやファッション、美味しいスイーツ、いい男」の話ばかりしていたいか?と問えば決して答えはYESではないでしょう。 ましてや「『女性側の視点』でラブストーリーを堪能したい」訳でもありますまい。
外から眺める分にはともかく、別に本当になりたいわけではないのです。 本当は外見こそ美少女になってちやほやされたいとは思っていても、興味は「メカや怪獣」に向いているに決まっています。
こういうのが正に「ガワだけ女」ということです。
「サイレントメビウス」連載開始から少し前に始まった「ファイブスター・ストーリーズ」(1986年4月~)の最初の(?)主人公、レディオス・ソープが余りにも女性的で美しいためにちやほやされるあの展開こそ「オタク」の理想郷の一つの到達点でしょう。
「あんな風になりたい」って。分かってもらえるかなあ。
一方的に女性を理想化しており、「隣の綺麗なお姉さん」に憧れる男子小学生なみのメンタリティだったのが当時のオタク創作物…と言ったら言い過ぎでしょうか。
「女性主人公(登場人物)を描く」にあたって、どうにかして理由が必要だと思ったらしく、AMP(アンプ、主人公たちが所属する組織)が女性ばかりなのは「出産できるから」としています。
それは「出産する能力が、『何故か』妖魔に対抗できる力を持つから」といった様な「作品独自の設定」ではなくて、象徴的な意味合いとして「未来に繋げられる」のが女性だから…ということなんだそうです。
正直余り説得力はありません。
「サイレントメビウス」は主人公を始めとした複数の女性たちが、街頭にディスプレイされているウェディングドレスに心惹かれたり、着替える際にだらしなく下着姿になってみたり、何より彼氏を作ってセックスする場面まで本編にあったりとかなり「背伸び」をして『女性的なるものを描こう』と奮闘はしています。
この点、単なる80年代末期のオタクコンテンツとして「とりあえず可愛い女の子を出しとけ」という価値観よりは一歩進んでいると評価することも出来ますが、キャラクターソングCDが発売され、キャラグッズを売っている「キャラクター」が愛する彼氏とセックスする場面が必要なのか…という疑問は残ります。(その展開に至る時点で表層的なファンたちは去っていた時期であるという事は確かにありますが)
この時点で「キャラクターを描く」ための器から「物語」へと脱却しようと模索していた…と捉えることも出来ますが。
かの「ファイブスター・ストーリーズ」も女性登場人物の心理を「女性的な目線で」しつこいくらいに描こうとしており、当の女性が描いた少女漫画の方がもっと「自分が女性であること」に屈託がないのではないか…とすら思ってしまいます。
ともあれ当時は、ここまでの意識を(作劇として成功しているかはさておくとして)持っている作品ばかりではありません。
このオタク系作品が「ファッションとして」女の子を出す傾向は80年代末期に実質的に「解禁」されたことで、ある意味「猖獗(しょうけつ)を極め」ます。それこそ例えロボットアニメだろうと。
今も明らかに男性に向けて作っているアニメなのに女の子が主人公の「深夜アニメ」には沢山あります。「ロボットアニメ」という事で言えばちと古いですが「クロスアンジュ 天使と竜の輪舞」(2014年10月から2015年3月)とか。
そもそもかの「新世紀エヴァンゲリオン」だって企画段階では主人公は女の子でした(嗚呼!いかにもオタク的!)。
紆余曲折あって、男の子になった訳ですがこれによって監督との心理的距離が限りなく近いどころかほぼ同一化してしまいました。
「エヴァ」は色んな意味で「精神的に未熟な」作品と言えると思いますが、それは主人公と監督がゼロ距離であることからもたらされた「偶然(奇跡)」でしょう。
仮に女の子のままだったならば、もう少し客観性は得られたかもしれませんが、あれほどのブームになるほど(いい意味で)「偏った」作品になりえたかは疑問が残るところです。
閑話休題。
まとめ
最後まで読んで良かった・・・(ネタバレあり)
完結から実に24年もの年月を経て「オタク第二世代」…ということは間違いなく「直撃世代」だった私は、「サイレントメビウス」を完結まで読んで、自分の中の「1988年~1999年」あたりを「総決算」した気持ちになりました。
それこそ「10年分を一気に駆け抜けた」訳です。
申し訳ないんですが、設定や世界観の作りこみは決して「重層的」とは言えません。
そのため、〇んだことになっているキャラが簡単に生き返り(しかも最悪なことに、読者からすると「どうせ生きてるだろ」「復活まだか」としか思えませんでした)、闇落ちどころか肉体としては〇亡していたはずの主人公があっさり正気に戻ったりします。
正に「思い込み」で事象が動く「セカイ系」というところです。
とはいえ、そうはいっても「ラストバトル」の壮大さはかなりのものです。ネタバレになることを書いてしまいますが劇中でほぼ唯一名前の付いたキャラで明確に〇亡したキャラたったひとり以外全員がハッピーになって終わります。
もしもここに到達するのが1999年ではなく、1992年頃であったならば「伝説」「金字塔」として残ったことでしょう。
少なくとも現在の世界線の様に「あれはいったい何だったんだ」という「忘れられたコンテンツ」にはなっていなかったはずです。
繰り返しになりますが、それなりにハッピーな気分にさせてくれる
壮大でかつ、ハッピーエンドなラストは
「嗚呼、1992年くらいに読めていればな」
と思ったんですよ。
しかし、残念ながら実際には連載完結に、1999年と約10年の月日が掛かってしまいました。
そのため、あれほど熱狂していた私含む多くのオタクたちは「サイレントが無事に完結していたこと」すら知りませんでした。
「新世紀エヴァンゲリオン」が1996年に投げっぱなしでTV放送を終え、1997年に更にムチャクチャにして劇場版を「完結」(気持ち悪い)させ、2007年に再開してから更に10年以上掛けてやっと2021年に完結させた時、ほぼ歓迎一色だったのと余りにも違っており、それなりに「サイレント」に愛着を持っていた筆者としては世の無情を嘆きたくなります。
この頃の「超大作」「話題作」は、逆にスパっと切り上げる作品も増えてきました。
かつては「あしたのジョー」(1968(昭和43)年から1973(昭和48)年)全20巻が「大・大長編」扱いだったそうですが、今では「中編」くらいでしょう。
それ以降「ワンピース」「ポケットモンスター」などを始めとして「延々と」続くことが「可能」(社会的な情勢≒オタク系コンテンツへの理解、需要)になったことを受けて実際に長く続くものも増えました。
しかし、「本当に人気のある」時期が10年も続く訳がありません。 それを知ってか「チェンソーマン」「鬼滅の刃」などは人気絶頂でありながら実にあっさりと完結してのけました。
今もブームが続く「機動戦士ガンダム」は少なくとも最初のテレビシリーズは1年で綺麗に完結しています。
また、断続的にTVシリーズが放送され続けてはいるものの、決して「放送開始以来40年間、常にトップの人気だった」わけではありません。
それこそある種のオタクにとってすら「旧時代のダサいアニメの象徴」とされていた時期すらあります。
「流行りものはけなす」みたいな空気というか。
80年代末期に、「とりあえずマイケル・ジャクソンとスピルバーグをけなしておけば一端(いっぱし)の文化人」みたいな風潮あったでしょ?あんな感じ。
「続いているかどうか」は人気の持続という面においては決定的な要素ではないと思います。
というか逆に「機動戦士ガンダム」が「40年戦争」みたいに今もダラダラとアムロやシャアが戦い続けていたらこんな人気にはなっていないと思われます。
どれほど熱狂的に嵌(はま)っていたとしても、いや嵌(はま)っていたからこそ、待たされる時間、いや「期間」が長すぎれば「もういいよ」ということになるでしょう。
私も半分ネタとして「HUNTER×HUNTER」の連載再開そして完結を心待ちにする方ですが、「ガラスの仮面」はもう諦めています。
そう考えると、毀誉褒貶あるにせよあれだけのクオリティと熱量で最後まで描き切った「進撃の巨人」は凄いものだと思います。
とはいえ「巨人」もまた決して短い連載期間ではないので、日本製アニメ・漫画の相対的地位が上がり、根気良く付き合ってくれるファンがSNSなどで連携できる時代の賜物(たまもの)であるとは思いますが。
逆に1988~1999年頃は、「徹底的に作りこんで描く」事と「さっさと終わらせる」ことのどちらが総合的に価値があるかも測りかねていた時代だったのではないでしょうか。
というか、そもそも漫画の人気などというものは一過性のそれであって、人気が無くなるまで連載を引っ張られるか打ち切られるかという時代です。
そもそも選択の余地なんて無かったんです。
「コンテンツ」などという言い方が登場するずっと前の「漫画」なんです。
作品としての「サイレントメビウス」は、流石に「3巻」くらいまではキャラクター紹介編として面白いので、「4巻~5巻」あたり、どんなに長くても6巻くらいまででラストバトルをしっかり描いて完結させるのが理想だったと思います。
であれば読者のテンションも持続します。
今にして思えば「サイレントメビウス」のコミックって「漫画作品」というよりやっぱり「キャラクターグッズ」なんですよ。
本編完結の『その後』にキャラクターがドタバタする番外編でもなんでもやればいいのです。
実際「鬼滅の刃」などはそういう形になっています。
「鬼滅」はブームとしては落ち着いた形になっていますが、丁寧に丁寧に前から順番にアニメ化されている「進撃の巨人」などと並ぶ幸運な作品です。
「サイレントメビウス」は「やるからには世界の危機を救うまでしっかりやる」ことにこだわった結果、11年掛かってしまいました。当時盛り上がった読者はもう1/100も残っていなかったでしょう。
或いは…ちょっとこれはかなり思い切ったアイデアですが…本筋がとっちらかる前に「戦いはこれからも続くのだ」で「妖魔(ルシファーホーク)との戦いはこれからも続く」形で終わらせる手もあったかもしれません。
仮にブームの絶頂期にこれをやったならば、10年越しに「待望の完結編!」と、ラストバトルをぶち上げることも出来たかもしれません。
それこそ「トップガン マーヴェリック」の様にね。
少なくとも11年もの年月を掛け、主要登場人物が〇亡し、主人公が闇落ちし…という散々な鬱展開を経て読者を振り落としまくった「ラストバトル」よりはずっと良かったかと。
或いははるかに少ない予算で膨大なストーリーを描き切れる「小説」などを発表してストーリーだけでも決着させておくとか。
そうであれば30年を経て映像化の道もあったかもしれません。「閃光のハサウェイ」の様に。
とはいえ、1990年初頭当時にそんなことまで見通せる訳がありません。
やはりそういう運命のコンテンツだった気がします。
余りまとまりませんが、少なくとも80年代末から90年代初頭という「オタク文化」が正に花開き、「新世紀エヴァンゲリオン」へと繋ぐ怒涛の時代を共に駆け抜けた時代の象徴たる「サイレントメビウス」を20年越しに全て一気に体験することが出来、とても感慨深かったです。
全く読んだことも無いという新規読者へはそこまでおススメ出来ませんが、当時夢中になっていた読者諸氏においては、今こそ「大人買い」してみてはどうでしょうか?
番外編まで収録した「完全版」が現在新装版で発売されています。
その際には、当時のドラマCDなどは入手困難でしょうが、「劇場版」の予告編やTVアニメの主題歌などをBGMに感慨に浸るのも悪くないのでは?…とか言ってみたりして。
P.S.当時人気絶頂だったスター声優さんたちをずらりと揃えた劇場及びTVアニメですが、その後多くのキャストさんがご逝去されています。
心よりご冥福をお祈りいたします。