漫画「無限の住人幕末の章」の8巻までの感想 ※後半に「無限の住人」のネタバレあり
感想は、連載初期からの「むげにん(無限の住人)ファン」ぶらっくうっどが書いてます。
よろしくお願いします。
2017年、突如「むげにん」が映画化される
2017(平成29)年4月、突如「無限の住人」の実写映画が公開されました。
その当時、かねてからずっと「サブカルチャー」として「日陰者」扱いされてきた「漫画」。
それを当代の大スター「木村拓哉」を主演に迎えての実写映画化です。
連載開始からずっと(断続的ながら)追いかけて来たファンからすれば「夢みたい」な出来事でした。
「無限の住人」概要・ストーリー等
1993年のアフタヌーン四季賞にて四季大賞を受賞した同名の読切作品が元となっており、『月刊アフタヌーン』(講談社)にて、1993(平成5)年6月から2012(平成24)年12月まで(20年弱!!)連載されました。
不老不死の肉体を持つ用心棒を中心とする時代劇ものの作品。
江戸時代の日本を舞台としていますが、奇抜な衣装を身にまとう人物や独創的な武器が多数登場します(このあたり後述)。
ストーリー
剣客集団・逸刀流(いっとうりゅう)に両親を殺され、実家の剣術道場を潰された少女・浅野凜(あさの りん)は仇討ちを遂げるため、不老不死の肉体を持つ男・万次(まんじ)に用心棒を依頼する。依頼を受けた万次は、凜と共に逸刀流との戦いに身を投じることになる。
当初、凛と万次は浅野道場を襲い両親を殺害した逸刀流の者たち(すなわち直接の仇敵)や天津影久を殺害し、逸刀流を潰すことを目的としていた。
しかし逸刀流や、それを潰そうとする無骸流、幕府の刺客などと斬り合い、時に親交をむすぶ中で「天津影久を殺して逸刀流を潰せば個人的な復讐は果たせるが、はたしてそれでいいのか?」と思い悩むようになる。
「無限の住人」連載当時の話
1993(平成5)年といえば「新世紀エヴァンゲリオン」の放送を2年後に控えた「オタク黎明期」と言えるでしょう。
明らかに「少年向けではない」作品の力作・傑作が次々に生み出されていました。「ベルセルク」の連載開始が1989(平成元)年です。
「無限の住人」の連載当時は「ネオ時代劇」なんて惹句もありました。
明らかに「鉛筆」で描かれた作画は各界に衝撃を与えました。
『鉛筆の描線』は当時の印刷技術では「印刷できない」ものであったため、「無限の住人」を雑誌に掲載するためにだけに技術革新が行われたほどだったそうです。
(↑当時専門学校にいた漫画家さんに聞いた話)
映像の専門学校に通う様な「トガった」若者たちの間では当然ながら熱狂的に受け入れられました。
何しろ、腕や足を切り落とされたくらいでは簡単に復活する「不死身」の男が主役という破天荒ぶりです。
「SF時代劇」といったところでしょう。
そこに持ってきて「コテコテの悪」ポジションの異形の剣士集団「逸刀流(いっとうりゅう)」、ご公儀隠密特殊部隊「無骸流(むがいりゅう)」なんてのが出てきます。
まだまだ「時代劇」といえば「お年寄りが観るもの」という偏見が抜けきらない時代です。
「水戸黄門」「大岡越前」「遠山の金さん」などは一周回って面白くはありますが(個人的に「金さん」は大好きです)、子供が喜んで観るものではないでしょう。
何とか若者にもアピールしようとTV局も工夫を凝らし、「木枯し紋次郎」「必殺仕事人(シリーズ)」などを送り出しますが、90年代ともなればその神通力も切れ、若者は「時代劇」とひとくくりにしていました。
はっきりと分かりやすく言えば「時代劇なんて古臭くてダサいもの」だったわけです。
そりゃ世間では「ガンダム」を始めとするリアルロボットアニメだの、超能力で街ごと破壊する「AKIRA」だのサイバーパンクな「攻殻機動隊」だのオタクサブカルごった煮の「サイレントメビウス」だのが我が世の春を謳歌しています。
そんな時代に「江戸時代を舞台にした時代劇マンガ」なんて…ねえ?
しかし、「無限の住人」は凡百の「時代劇」の常識を覆しました。
主人公はちょっとやそっと殺したくらいじゃ(??)簡単に生き返ってくるし、奇妙な形状の「武器」を縦横無尽に使いこなす「サムライ」たちが跋扈し、「必殺技名を叫ばない」だけでやってることは「聖闘士星矢」や「北斗の拳」にも劣らない活躍ぶりです。
面白くない訳がありません。
4巻以降読み進めると・・・あれ?案外本格的だぞ?
才気あふれる作者の沙村広明(さむら・ひろあき)先生は、「無限の住人」の連載と並行して幾つもの作品を送り出しています。
コメディ作品「おひっこし」やサド趣味を全開にしてしまったため一部では蛇蝎の様に嫌悪されている問題作「ブラッドハーレーの馬車」(2005年-2007年)、「ハルシオン・ランチ」(2008年-2011年)など。
「無限の住人」終了後に始まった「波よ聞いてくれ」(2014年~)では「スキあらばボケ倒す」という『本性』が炸裂しており、毎回窒息するほど笑えるトンデモ一歩手前展開が持ち味です。
「波~」はドラマ版も最高でした。
「波~」ドラマも面白かった!
そのため、特に「無限の住人」が話題になった当初の1~3巻くらいで止まっている人は、「破天荒(ということは勢いだけで押し切る)バカ時代劇」という認識のままかもしれません。
だって「不死身の男」が主人公と言う時点で「時代考証」とかちゃんとしてるなんて思わないじゃないですか。
長く続いた作品は、設定がどんどん適当になっていく現象が見られることが多いです。
ところが「無限の住人」はむしろ「設定がどんどん現実に近づいて」行きます。
極論するならば「不死身の男」という設定がただ一つの「ウソ」で、後は本格時代劇とすらいえます。
劇中で「関所越え」をする必要に駆られた際、「手形」無しでどうにかそこを突破するべく知恵と工夫を凝らし、どうにかこうにか役人(侍)を騙し通して突破はします。
するんですが、「所詮幕府という巨大組織には叶わないという諦観」が徐々に浮かんできます。
「無骸流(むがいりゅう)」なんて江戸時代なのにスキンヘッドで丸サングラスの男が、「首ちょんぱ武器」を使いこなし、金髪美女が漫画の「忍者」みたいな恰好で腕に取り付けたボウガンを撃ちまくります。
その時点で「マンガ」としか思えません(漫画ですが)。
彼らの「過去の回想」において、ごく普通の主婦や町人だったことが明かされ、庶民であるが故に些細な罪で「死罪」を宣告されて、「無骸流(むがいりゅう)」に編入させられたことが分かってきます。
何というか、漫画の中のスーパーヒーローたちの裏の顔を見せつけられたみたいな気持ちです。
我々が「痛快マンガ」に期待するのは「現実のウサを忘れさせてくれる」ものだったはず。
ところが「江戸時代では庶民にロクな人権などない」現実が徐々に浮かび上がってくるのです。
あのマンガみたいなキャラクターたちは所詮は幕府の掌の上で踊っていただけだったのです。
これじゃあ、毎回悪代官が処罰されたり無残に殺されて庶民が助かって溜飲を下げる「水戸黄門」や「必殺仕事人」のほうがずっとファンタジーです。
中盤に至って遂に「時の将軍」が「徳川家斉(とくがわ・いえなり)」だったことが明かされます。
第11代・徳川家斉は江戸260年の治世の内、実に「60年」に渡って君臨していた実在の人物。
「暴れん坊将軍」こと八代吉宗(よしむね)や、「犬公方」こと五代綱吉(つなよし)に比べるとポピュラリティは劣りますが、ポイントは「実在の人物」であること。
これによって、連載開始当初は「おとぎ話」だったはずの「無限の住人」の舞台は「1787(天明7)年 – 1837(天保8)年」の「どこか」であることが「確定」してしまいました。
別に家斉が画面に直接登場してきたりはしないんですが、絵空事であったはずの「無限の住人」の世界が現在の我々と地続きであることが明かされたことは個人的にはかなりショックでした。
どんどん「現実的」になっていく
「不老不死」「不死身」だと思われていた万次の体質にしても、「不死身」には程遠いことが明かされていきます。
斬られようが切断されようが、身体に穴をあけられようが「再生」してしまう万次。
ただそれは「再生できるレベルなら」に過ぎません。
同じ体質を持っていた閑馬永空(しずま・えいくう)戦でも明らかになりましたが、「全身をバラバラにされて放置」されてしまえばもうどうにもなりません。
また「窒息死」「焼死」「凍死」にも無力。むしろ「復活できるシチュエーションの方が少ない」ことが判明します。
確かに病気には恐らくならないでしょうし、老衰で死ぬこともありません。
しかしこれでは「重大な交通事故」レベルでもあっさり死ぬときは死にます。
読者としては「そうなの!?」の連続でした。
⇩ ※以下の文章ネタバレあります。ご注意ください!
「時間」と「現実」の波に飲まれていく登場人物たち(※ネタバレあり)
ここから先はネタバレとなります。
まあこれは「無限の住人」原稿ではなくてあくまでも「幕末の章」原稿の「マクラ」なので「本編」を読んでいること前提ということで。
この物語の「推進力」はあくまでも「親の敵討ち」として「逸刀流」を追う「凛」です。
よく主人公扱いをされる万次すらある意味において添え物です。
ところが途中からは「逸刀流」が物語の中心となります。
余りの目立ちっぷりに「幕府公認の剣士集団」として認められるかもしれないという甘い誘いに乗ったが最後、それは彼らならずもの集団をおびき寄せるための罠であって、幕府は彼らを宴席にて襲撃、その場にいた剣士をほぼ皆殺しにしてしまいます。
その後生き残った「逸刀流」たちの逃避行がメインとなるのです。
そもそも序盤こそ「悪役」ムーブの為の蛮行が目立つ(*)「逸刀流」でしたが、党首の天津影久(あのつ・かげひさ)の「思想」はそれなりの説得力があります。
(*序盤に殺される犠牲者たちの描写はかなり抑制気味ではあったもののなるほど作者のサド趣味が垣間見えます。とはいえ娯楽作の範囲に収まるレベル)
時代背景的に言うと江戸時代も中盤から終盤に差し掛かる頃で、戦は絶えて久しいにも拘らず「剣術」は推奨されるという歪(いびつ)な時代。
いきおい「形式主義」となり「権威主義」となります。
生臭いことに「存続」のために、実戦では使い物にならない「奥義」を乱発し、「免許皆伝」を餌に授業料で糊口をしのぐ「道場」も多かったのです。
「逸刀流」は「その風潮に異を唱える」集団でした。まあ、江戸時代なので「道場破り」と同時に「皆殺し」にしちゃうから問題になるわけで(そりゃな)。
彼らが目指すのは「形式に捕らわれない強さの追及」であり、「その実証」だったわけです。
例えば当時は所謂(いわゆる)「日本刀」、練習用の「木刀」、「竹刀」以外を道場や稽古で使用するのは「邪道」とされて「破門」になったりします。
戦国時代でもメインだったのは「槍」の方で「刀」は「相手の首を取る」ための道具か、槍が損傷した際の「予備の武器」に過ぎませんでした。
そもそも殺し合いですから、使えるものであればそこいらの石でも丸太でも何でも使うに決まっています。
映画「るろうに剣心」(実写版)で描かれた通り、蹴りも使えば体当たりや取っ組み合いも含めての「殺し合い」です。
日本刀が「武士の魂」などと持ち上げられるようになったのも「形式主義」の一環です。そもそも単なる「道具」に過ぎません。
映画「七人の侍」で描かれた通り、日本刀は人を斬れば簡単に損傷します。
そもそも人体の油分によって猛烈に切れ味が鈍っていきますし、相手の多くが具足(鎧)を付けていることを考えれば「使い捨て」同然だったことは想像が付きます。
その「日本刀」という「道具」に執着するなど愚の骨頂です。
「逸刀流」は当然道具の制限など何もありません。「強い」ことが第一です。…そういう集団だったわけです。
しかし、権威である幕府はそれを許しません。
はっきり言えば「より正しい」かどうかなど問題ではないのです。「社会の秩序」の方が大事なのです。
「トンデモ時代劇」だったはずの「無限の住人」はそういう側面を次々に露にしていくのです。
最初の数話はともかく、ある程度進むと天津影久(あのつ・かげひさ)のみならず、凶戴人(まがつ・たいと)あたりまでかなりの厚みを持って描かれるため、「誰が主役で何を目的とする話だっけ?」と言う感じになります。
実写劇場版でも少し描かれましたが、万次と凶戴人(まがつ・たいと)とは基本的には「敵同士」であるにもかかわらずある種の友情めいたものまで成立してしまいます。
ストックホルム症候群ではないですが、心ならずも「親の仇」であるはずの天津とは多くの道中を共にし、ことあるごとに再開して会話を交わすまでに至ります。
衝撃の最終回(※ネタバレ)
20年にも及ぶ長期連載でありながら、テンションもクオリティも全く落ちませんでした。
それは確かではあるんですが、やはり長かった。月刊誌連載だったために1回のページ数こそ多いものの刊行ペースが週刊誌(年間5冊程度)連載の半分程度です。
私も手に汗握る逃避行を、東京から九州の田舎に引っ込んだ後も買い続け、楽しみ続けていました。
ただ、それにも限界があって、プライベートの全てを捧げなくては到底突破できない国家資格試験の息抜きとして読み続けてはいたものの、新刊が出るたびに直前の展開を忘れているので「数巻前から読み返す」ことを年一ペースくらいで続ける内に「気付けば新刊が出ている」状態となってしまっていました。
結局最後まで読んだのは「最終巻刊行」の報を受けて更に数年後のことになります。
壮絶な逃避行の最後に至り、凛は遂に「本懐を遂げ」ます。
遠大で、ある意味「崇高」な「理想」を掲げて目標に向かって突き進んでいたはずの天津影久(あのつ・かげひさ)はその途中の「踏み台」に過ぎなかったはずの「小さな道場」の忘れ形見によって腹を貫かれ、逃避行が正にならんとする船の目の前で海に沈んでいきます。
時代が許し、方法論さえ間違わなければその理想ももしや成ったかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。
確かに、連載開始直後は「これを目指して」いたはずでした。
親の仇である「天津影久を討つ」ことです。
しかし、紆余曲折あって「もうそんなことどうでもいいじゃないか」と思った瞬間にこれです。
日本全国通津浦々にまで張り巡らされた「幕府の目」を逃れて逃避行するしかない天津はあの後は放っておいても野垂れ死にするしかないでしょう。ですから多くの読者が「何もそこまでしなくても…」という感想を抱かせました。
実に複雑で何とも言えない後味を残しつつも、基本的には「本懐を遂げた」ハッピーエンドには違いないのです。
その後、生き残った登場人物たちの「その後」が描かれ、彼らは「トンデモ時代劇」のスーパー登場人物から「江戸時代の庶民」になって終わります。
そして時代は一気に「明治時代」に飛びます。
本編中と全く変わっていない万次が登場し「不老不死」っぷりを見せつけます。
何しろ「逸刀流なんて名前を聞くのは90年ぶりだ」とか言っちゃうくらい。
恐らく…というか間違いなく…凛たち他の登場人物は先に老衰その他で亡くなっていることでしょう。
二重三重に「想像の斜め上をいく」結末に。
20年間付き合ってきた読者の大半を概(おおむ)ね満足させてこの大長編大作は見事に幕を下ろします。
個人的な感想になりますが、これを夢中になって読んでいた専門学校時代の友人がいました(現在は没交渉)。
こいつは所謂(いわゆる)日本の典型的なセルアニメに代表される「オタクサブカルチャー」への嫌悪を隠さないタイプでした。
そいつもまた、「典型的なオタク好みのする作風」ではない「無限の住人」をほぼ無批判に持ち上げて称揚していたものです。
あれから20年は経過していますが、是非この結末の感想を聞いてみたいもんです。
或いはもうマンガ・アニメなんてのには全く興味関心なく普通に社会人として頑張ってたりするのか…。
連載期間の長い作品というのは人生と共にありますね。
それにしても80年代なんてどんなマンガでも3年もあれば完結したもんでした。ビートルズだって実質的な活動期間は4年程度です。
熱狂が続くのはそれくらいが限界。
20年もひとつのマンガの連載が続くなんて日本が平和になった証拠でしょう。
実写版映画の公開に合わせてか「愛蔵版」が発売し直され、二度目のアニメ化も行われました。
どうやら映像作家の感性を非常に刺激する作品であるらしく、「どうにかして完全映像化したい」と二度目のアニメ化によって完全映像化がなされました。
実は私は未見なのでこれから見るのが楽しみです。
漫画『無限の住人〜幕末ノ章〜』を見つける
「静かなブーム」があったとするならば、連載開始から数年くらいでしょうか。
21世紀に入る頃には「ああそんなのもあったなあ」という扱いだったのではないでしょうか。
本当に申し訳ないのですが「あれってまだやってたんだ!」という存在でもありました。
まあ、それを言ったら「パタリロ!」とか「王家の紋章」だって「まだやって」るんですけどね。
忘れちゃいけない「ガラスの仮面」だって連載(休載)中です。
連載終了から7年後、スピンオフ作品として、沙村先生協力のもと、滝川廉治(原作)と陶延リュウ(作画)による『無限の住人〜幕末ノ章〜』(むげんのじゅうにん ばくまつのしょう)が、『月刊アフタヌーン』にて2019年7月号から連載がスタートしていたのです。
…とはいっても私はアフタヌーンの定期購読をしていた訳ではないので、何かのきっかけでネットサーフィン(死語)をしていて
『無限の住人〜幕末ノ章〜』
という文字を発見して
「…何じゃこりゃ!?」
となった次第です。
早速1巻を取り寄せてみました。
幕末?
俗に「戦国時代に比べると幕末は人気が無い」と言われます。
残っている記録量が段違いということもありますが、戦国時代は「戦国武将」というそれなりに大きな単位で物事が動くのに対し、幕末は「維新の志士」という「脱藩浪士」みたいな個人単位で話が進行するところがあります。
大筋はあるものの情勢が複雑で入り乱れ、情報量も多いため、キャラクターの活躍を描く前提として「説明」が非常に多くなってしまう傾向があります。
とはいえ、坂本龍馬や高杉晋作、西郷隆盛、新選組の面々など魅力的な「個人」が多い時代であるのもまた事実。
「あの万次を幕末に放り込んでみたい」という気持ちはよく理解できます。
実際読んでみると、作画は「驚くほど」原作にそっくりで、それこそ独特の雰囲気というか「作画の癖」どころか「滑り気味のギャグ」(失礼)みたいなものまでほぼ完全再現。
それこそ「ハンチョウ」「トネガワ」「イチジョウ」クラスです。
「GANTZ」や「ナニワ金融道」など、作者本人の作画に寄らないスピンオフは数多くありますが、その中でも屈指の作画の再現度と評価していいと思います。
物語の展開も、本編を貫く一本の柱でもあった「万次の体質に目を付けたマッドサイエンティストと権力側による追求」路線をうまくかみ砕いています。
また、江戸中期の旧作登場人物をまさかそのまま登場させることは出来ませんが、「子孫」が登場しファンをにやりとさせてくれます。
そもそも万次自身が「アメリカ帰り」で「万次」と言う名前から「ジョン万次郎」と言う存在だった…ということになっていたりします。
当然、歴史上の有名人物も続々登場。
正直「一発屋」というか「出オチ」企画だと思っていたのですが、2023(令和5)年現在でも単行本8巻を数え、今なお連載中です。
そんなこんなで、8巻まで一気読み!
我慢できずに8巻まで全部取り寄せてみました。
妻とシェアしたい漫画は電子でなく紙で買うのですが、台風シーズンだったこともあり、「2巻」だけがなかなか到着しないという「じらし」を食らうものの、到着と同時に速攻で読破。
…「面白い!!!」
これはムチャクチャ凄いですな!
世の中にあまたの「新選組もの」が存在します。
私はどちらかというと幕末より戦国時代とかの方が好きだったので、幕末はそれほど詳しくはないのですが、それにしても「沙村風解釈」の新選組隊士たちが次々に登場して「大活躍」を繰り広げます。
これは、ある意味において本家の「無限の住人」を越えるところがあるかもしれません。
というのは、そもそも最初は架空の舞台とすら思われていたスタートであったため、劇中に登場する「実在の人物」となるとセリフの中に1回だけ登場する「徳川家斉」だけでした。
ところが、「幕末の章」においては、主人公の万次と数人以外はほぼ実在の人物です。
なので、「夢の競演」なわけです。
歴史を知っていれば、とっくに死んでいるはずの新選組隊士が実はこっそり生きながらえて暗躍していた…なんて展開も拍手喝采です。
細かい描写の端々に「無限の住人」をしっかり踏まえていることを匂わせて旧作ファンをにやりとさせつつも、恐らく新規読者でも「そういう人物が過去にいたのだな」くらいで愉しむための障害とはなっていないと思います。
これは「無限の住人 幕末編」というよりも「歴史漫画」だっ!
実は「無限の住人」と共に、押さえておくべき「知識体系」があります。
それは「実際の歴史」です。
例えば「芹沢鴨は初代隊長で、新選組の主導権争いで斬殺された」とか「山南敬助は切腹させられた」とかを知っていないと、何の説明もなく出て来る展開についていけません。
それこそ「サンナンさん!」と呼ぶ場面は、まあ流れで分かるとはいえ、「山南(やまなみ)」を音読みする「サンナンさん」という呼び方も結構されていた…という豆知識が無いと分かりにくいでしょう。
「池田屋」「近江屋」などが出て来るだけでその先が想像できるからこそ有機的に展開がリンクします。
「とりあえずこれ読んどけば新選組関係は大体わかる」書籍とかは私はすっと出せませんが、漫画の「おーい!竜馬」は絶対に読んだ方がいいでしょう。
「金八先生」のイメージがある武田鉄矢原作ですが侮ることなかれ、生半可なスプラッタ作品も裸足で逃げ出す苛烈な残虐描写と、歴史学者顔負けのリサーチで「単なる竜馬愛ではない」凄まじい作品に仕上がっています。
小山ゆう先生の愛嬌のあるキャラクター造形で描き出される人物たちも、歴史上の実在の人物であるからには多くが「壮絶な運命」に巻き込まれていく訳で…まあ、この辺にしておきましょう。
あと、大河ドラマ「新選組!」はおススメです。
大河ドラマ「新撰組!」だけでは、追いつけないね・・・。新撰組ファンは幕末の章を読んで、全部わかるかしら。
土方歳三/山本耕史、斎藤一/オダギリジョー、山南敬助/堺雅人、原田左之助/山本太郎、 永倉新八/山口智充…といったキャストもぴったりで、未だにこのイメージで想像する人も多いくらいです。
かくいう私もそうです。
今となっては「沖田総司/藤原竜也」はちょっと汚れすぎと思われるかもしれませんが(超失礼)当時は「紅顔の美少年」イメージそのまんまだったんですよ!!
ああ、そういえば漫画「ゴールデンカムイ」にも一部登場しますが…。
幕末といっても逆に情報が多すぎて一通りの知識はあっても「具体的に何をした人なのか」って案外知らなかったりします。
高杉晋作って案外「奇兵隊」のイメージくらいしかありません。かなり若くしてしかも維新の真っ最中に病死してしまうため「大河ドラマ」の主人公になりづらいのですが、どうしてどうしてあの「周囲に頭がおかしいのしかいない」長州藩の中で見事に立ち回っています。
「金門の変(蛤御門の変)」についての歴史的説明が延々と数ページに渡って続くのには驚きました。これはもう「歴史漫画」と言っていいでしょう。
渋く重厚な展開、それこそ「本人が描いている様な」作風は、正直「なめていた」私の様なすれっからしのオタクを大満足させる出来です。
はっきりいって夢中になって一気に読みましたが、数年おきに読み返す作品リストに刻まれる作品となりました。
凡百のスピンオフが失速していく中、異常に高いアマゾンカスタマーレビューの高評価に「もしや」と思っていましたがいい方向に期待が裏切られました。
元作品のポピュラリティを考えればもっともっと話題になっていてもおかしく無いと思うのですが…。
ともかく、心ある漫画ファンで「無限の住人」を最後まで読み切っていても「あの傑作に蛇足になりかねない続編なんて…」と思っているのであれば絶対に読んでいただきたい!
まとめ
旧作読者全員が突っ込んだ通り、そもそも本編の万次が最終回で明治時代で「逸刀流の名前を聞くのは90年ぶり」と発言しており、言ってみれば「幕末の章」そのものが本編と矛盾しています。
流石に「幕末の章」のスタッフがこれに気が付かない訳がありません。
読者も制作陣も、「IFストーリー」として大いに楽しんでいるというところでしょうか。
完結にはまだまだ年数が掛かりそうですのでのんびり楽しませてもらうとしましょう。
何しろ「不死」はともかく「不老」であることまで公式が認めた形になったため、極論すれば「現代」に万次を活躍させることだって不可能ではありません。
「無限の住人 戦後の章」とか「昭和の章」とか幾らでも作れそうなのが面白いですよねえ…。
久しぶりにまた本編読み返そうかな。
おまけ
作中の登場人物の多くが「葛飾北斎」のペンネームから引用されています。
「俵屋宗理」「百琳」「戴斗」「為一」「画狂老人卍」等々
これを探すのも楽しいですよ。