漫画「ルサンチマン」「ボーイズオンザラン」に見る花沢健吾先生の作家性(BW)※ネタバレ有り
この記事は、シーサーブログにて2017年10月27日に公開された記事に加筆・修正を行ったものです。
「ルサンチマン」「ボーイズオンザラン」に見る作家性
作家性を読み解いてみる
御多分に漏れず映画「アイアムアヒーロー」から花沢健吾先生の世界に参戦した、にわか組でございます。
その後コミック版の「アイアムアヒーロー」「ボーイズオンザラン」「ルサンチマン」と丁度代表的な長編を描かれた順番と逆に遡(さかのぼ)る形で読むことになってしまいました。
言い訳めくんですが、遡(さかのぼ)って読んだことで逆に作家・花沢健吾(敬称略)の「作家性」が分かりやすくなったかな~と愚考してしまったりしたので以下つらつらと。
「ルサンチマン」〜「アイアムアヒーロー」までの登場人物
「アイアムアヒーロー」までの花沢漫画というのは、題材というか前提条件は様々なんですが、実は毎回同じ話であるというところがあります。
別にこれは非難とかそういう話じゃないです。
どんな作家でも作家性というのはそういうもので、毎回同じテーマを手を変え品を変えて行うものです。
主人公は常に社会不適合のダメ男。
そういった主人公に対し、黒髪で純粋無垢に見えるヒロイン1が登場し、
後でより世間ずれした金髪或いはロングヘアのお姉さんタイプのヒロイン2が登場。
(結果として)どちらにもアプローチした主人公は、ヒロイン2人に取り合われる存在になる…訳です。
「ルサンチマン」という凄いタイトルのこの漫画は、バーチャル・リアリティの中にログインしてそこで「理想の彼女を見つける」というテーマ。MMORPGですね。
「ボーイズオンザラン」は冴えないサラリーマンがヒロイン1を傷物にされたことに一念発起して格闘技を志すも…と言うお話。
「アイアムアヒーロー」はなんとゾンビハザードもの。
どのお話もテーマ(モチーフ)はバラバラなのに、物語の進行は見事にこの構図。ヒロイン1とヒロイン2の登場順まで一緒です。
更にヒロイン1は物語が進むにつれて「本音」というか「本性」が露(あらわ)になっていき、作品によっては「ドス黒い」ところまでさらけ出すに至ります。
対してヒロイン2は最初から「スレ」ているところを見せているため、ヒロイン1と対比の為に登場したかと思いきや、結構純粋なところもあって…という展開。
この中で唯一「ボーイズオンザラン」のヒロイン2のみ「聾唖者(ろうあしゃ)」つまり、耳が聞こえないという属性が付与されているのですが、ヒロイン1のポイントが余りにも(序盤では)高いため、対抗するためにはこれくらい盛らなくてはならなかった…のかと勝手に推理しています。
どうしてもまだ我が国に於いては「障害者」というのは「バイアス」が掛かって「ひたむきに頑張る聖人」として描かれがちです。
同時に「既婚者でヌードモデル」と大量の属性がぶち込まれているのですが、テレビ番組を見ながら大口を開けて笑っている描写はどうしても「純粋無垢な天使」を思わせます。
結論を先にいうと
先に結論を書きますが、主人公・ヒロイン1・ヒロイン2の「三角関係」までは同じなんですが「最終的な着地点」が3作で全く違います。
「ルサンチマン」においては、若干変形ながらヒロインの愛を2人とも手に入れます(*)。
「ボーイズオンザラン」においては、ヒロイン2のみ手に入れます。
「アイアムアヒーロー」においては、両方とも失ってしまいます。
…作品を追うごとに手に入れられるものがどんどん減っているんです。
ここまで毎回同じだったりすると、それは正に作者の「人間観」の表出と観ることもできるのですが、毎回違うということになるとそこが変化或いは進化しているということなのでしょうか。
*「ルサンチマン」のラストの解釈は人によって別れるところがあります。
私などは「2人とも助けることが出来た」大ハッピーエンドだと思っていたのですが、妻は「最後の最後で現実の女よりバーチャル取りやがった裏切り者」だと思い、あまつさえ「両方とも失った」解釈をしていました。
確かに改めて読み返してみると、主人公のたくろーは服役こそしていないものの長期入院で社会からつまはじきにされてうらぶれた実家の弁当屋で手伝いをしている描写。少なくとも「社会の成功者としてバリバリやっている」と言う描写ではありません。
またヒロイン2と同居したりあまつさえ結婚したりしているわけでもなく、ヒロイン1の記憶からは消えています。
ただ、それでも私は3作の中で最もハッピーなラストだと思います。
主人公のダメ男ぶりはトレンドのそれとは少し違う
どの主人公たちも「駄目人間」として描かれはしているんですが、アニメやライトノベルの「(精神的)引きこもり」たちとちょっと違います。
前者たちは、基本的に「どんな形であれ女性に触れることも出来ない」悪い意味での純粋無垢な存在なんですが、花沢漫画の主人公たちは「風俗に行く」もっと言えば「純粋に快楽としてのセックス」をすることは余り抵抗を感じていません。
劇中何度も「臨時収入」で「何か別のこと」と「風俗に使う」ことの「二者択一」を当たり前の様に苦悩します。
これは典型的な「アキバ系オタク」(表現が古いな)とは少し異なっています。彼らはお金があればアニメグッズやアイドルイベントなどには使いますが「風俗」は選択肢に入れません。
恐らく読んでいて一番「おかしい」のは、花沢漫画の主人公たちは、風俗に行くのは抵抗が無いのに、会社の女の子には話しかけるのにもドキドキしてしまうこと。アレですわ「心と身体は違う」って奴。「素人童貞」とも言いますが。
しかし、ある意味えらいのは花沢漫画の主人公たちは玉砕覚悟でちゃんとアプローチするし告白もするんです。
「そんなの当たり前だろ?」と思うかもしれませんがこれが当たり前じゃないんですよ。
どういう事かと言うと、異世界転生ものやオレTUEE系の話は、「勝手に女の方から言い寄って来てモテモテ」なんですよ。
自分からリスク覚悟で何かをするのではなくて、勝手に与えられる様になるんです。これは楽だということもありますが「絶対に失敗しない(向こうから来るのだから決して傷つかない)」ことが担保されているんですね。
花沢漫画の主人公たちがこれと言ったアニメや漫画に限らず、「趣味」に没頭する描写はありません。「ルサンチマン」以外は。
「アイアムアヒーロー」の英雄の「散弾銃」が「趣味」とも言えますが、オタクというのは「趣味に拘泥するあまり社会性に支障をきたす」からこそ「オタク」と言われる訳で、英雄の散弾銃はしっかりと距離感と節度を持って接しており、いい意味で「趣味」の範疇に留まっています。
「ボーイズ~」においては「ガチャガチャの企画会社」、「アイアム~」においては「漫画家」と非常に専門性と敢えて言うならオタク性の高い職場でありながらそれ自体に耽溺する描写が余り無いのです。
個人的にはフィクションにおけるオタクということでいうと「成恵の世界」の主人公のアニメオタクぶりが一番痛々しかったです。
純粋無垢(またか!)なヒロインの成恵ちゃんにまでアニメ視聴やコスプレを(結果として)強要し、劇中で特に批判的に描写されていません。
そうした作品に比べると花沢世界は世界観的に「甘えが排除されている」と言えるでしょう。
あと、典型的なライトノベル&オタクコミックのハーレム主人公たちは、どこまで「決定的な場面」が演出されようとも、劇中ではほぼ体の関係までには至りません。
これは海外のオタクには不思議らしく「イ○ポ主人公」と言われたりするみたいです。
しかし、気持ちは分かります。今時の「草食系」(敢えてこの表現を使いますが)読者たちにとっては、セッ○スなどというのは「キタナ」くて「ナマグサ」いものであって、生理的な嫌悪感の対象でしかありません。
インターネット実況などを見ているとセクシーな女性に対して、称賛するコメントと同時に「くさそう」というコメントがかなり付きます。
彼らがいかに「生身の人間とのふれあい」を求めていないかが分かります。
ただ、とはいえ性的なものがオタクは淡泊なのかと言うと全くそんなことはありません。現代の秋葉原は寧(むし)ろ「電脳街」というよりは「オタク風俗街」とでもいうべき様相を呈しています。
ただ、彼らは「エロ」に関しては「エロ専用」コンテンツ或いは「現実」で処理しているので、何もただ純粋に楽しみたいだけの漫画やアニメの中に小汚くてむさくるしい男のオ○ニー、ひいては男女のセッ○スなんぞ描いてもらわなくてもいいわけです。
その点、その辺りの「みっともなさ」「生理的嫌悪感を催す描写」を遠慮なく描き、寧(むし)ろ「臭いのが好き」と言い放つ主人公(なんと2作にも共通!)は、「駄目人間」ではあっても「この頃のオタク」及び「オタク系作品で良く描写される典型的主人公」とは少し、いや全く違うのは間違いありません。
苦い展開
花沢漫画は「青年漫画」であって「少年漫画」ではないと言えるでしょう。
それは頻発する風俗とか自慰行為とかの単なる描写ではなくて、「痛快娯楽」というよりは「社会派」に近い世界観です。
「ルサンチマン」でも一部匂わされますが、特に「ボーイズオンザラン」においては主人公と対比するように出て来る「やり手のイケメン」が明らかに人間のクズとして描かれます。
常に一見爽やかに見える薄い笑いを浮かべていて明らかに「闇」を感じさせます。
それでいて外面はよく、社会的にも成功しています。
俗に「イケメンは心もイケメン」と言われます。成功者は心に余裕があることが多く、実際にはそこまで悪人はいません。中学高校時代ならともかく、社会人になってまで必要以上に弱いものをいじめたりはしません。まあ、ある程度以上距離を詰めると拒絶されるのは同じですが、別にそれはイケメンに限った話ではありませんし。
「ボーイズ~」の青山くんみたいなイケメンでサイコパスみたいな悪人はテッド・バンディみたいに対比して印象的であるにすぎません。
「ボーイズ~」で驚いたのは、明らかに劇中で「悪役」である役回りのキャラクターたちがこれといった「制裁」を受けることも無く、そのまま終わることでした。
この点「少年漫画」は悪い意味でこらえ症がありません。
「ボーイズ~」に登場する「いじめの黒幕」は外面は良く、それでいて陰謀を巡らせ、常に自分より弱そうな存在のみを狙う正真正銘のクズです。
仮にこんなのが「ガンツ」に登場したらあっという間に宇宙人に輪切りにされるでしょう。
実際、いじめられっ子の西がクラスぐるみでいじめをしていたクラスのほぼ全員を惨殺する展開がありました。
正直言って元いじめられっ子としてはいじめの首謀者どもが手足や首をふっ飛ばされ、脳みそをまき散らされ、はらわたがぶちまけられるのを見て快哉を叫びたい気持ちでした。アブないですね。
元々「人の命の軽い」漫画ですが(爆)、ちょっとでも不遜な態度を取ったりする登場人物は大抵「原型を留めない」ほどに惨殺されます。
花沢漫画においてはそういった「痛快な」展開はほぼありません。
世界の為に奔走し、かけがえのない命を救ったはずの主人公は更に社会からつまはじきにされ、「犯罪者」認定されて終わります。
誰にも理解されないのです。これは辛い。本当に辛い。はっきり言えば「死ぬより辛い」。
主人公は仮に死んでしまったとしても「理解され」れば救われるのに、理解だけはされない。
「ガンツ」が最後に「ちょっとやりすぎ」なくらい主人公が全世界に称賛されて終わるのと好対照です。
なんと「ルサンチマン」「ボーイズ~」の両方とも主人公はラストにおいて入院及び服役して、一定期間社会から隔絶されています。「アイアム~」がそうなっていないのは近代文明が崩壊していたからに過ぎず、仮に残っていたらきっと服役していたのでしょう。
というより、敢えて全く劇中で接触を持たなかった別コミュニティが存続していることを匂わせるあたり「隔絶されたまま終わった作品」ということも言えそうです。
「ルサンチマン」にしても「ボーイズ~」にしても、「隔絶」の後には「再会」が描かれ、ということはある程度の「救い」があったのにそれが無くなっています。
「ルサンチマン」は実は綺麗に終わっている様に見えて打ち切りであって、あの後生まれ変わった月子とのふれあいが描かれる予定だったそうです。
「アイアムアヒーロー」の終盤、自意識を残したまま変貌した肉体ごと取り込まれた「巨大ZQN」などというものを出したからには、「元の肉体」を再現した比呂美ちゃんや藪(小田)さんが「生み出され」て実質的に生き返り、その後のサバイバル生活を共にする展開すら理論上はありえました。
何しろ「若返って」出て来るなどと言うご都合主義まで一方ではやっているのですから。
非常にシビアな世界観です。
絶望するしかない「人としての格差」
「ボーイズ~」の前半における最大の敵「青山」。
彼は主人公の思い人で純粋無垢な恋心を育んでいたヒロイン1(ちはるちゃん)を寝取り、寝物語で企画を盗み取り、あまつさえ妊娠からの堕胎に追い込み、一切の罪悪感を感じることもなく、主人公に向かってヒロインを性的に人間的に侮辱します。
およそ「少年漫画」において「万死に値する」ことを5つも6つも行っており、「ガンツ」ならすり潰されて死にます(しつこいな)。
しかし、それなら青山が同情の余地が一切ない「バットマン」のジョーカーみたいな純粋な悪党として描かれているかと言うと決してそうではないのです。
この辺が「北斗の拳」のモヒカンあたりと違うところ(一応断っておきますがこれは両者の「役割が違う」ためで優劣の話ではありません。勧善懲悪もので「悪役の人間的な描写」は邪魔ですから)。
ケンカが強くまず負けたことが無いことが社内的にも知れ渡っている青山くんは、にわか仕込みのボクシングの構えをする主人公・田西に対して「カポエラ」で対抗します。
元は黒人奴隷が鎖でつながれていて両手が自由にならないために編み出したとされている「足のみで戦う」格闘技。
動きがダイナミックで面白いので「格闘ゲーム」にはしょっちゅう登場します。
ただ、「逆立ちして戦う」(こともある)様なスタイルがどの程度実践的なのかは議論があり、現在はほぼ観光客用のダンスショーと化しているとか。
つまり「手加減」してくれている訳です。
あっという間に追い込まれ、噛みついたり小水を漏らしたりとあらゆる姑息な手段を使います…が、結局勝てません。
正直ちょっと…いや、かなり驚きました。
これが「ベストキッド」(原題「カラテキッド」)みたいなハリウッド映画だったら、どんな形であれ主人公が勝ったことにするでしょう。
或いは引き分けでも実質勝ちにするとか。
最低でも、「負けた後お互いをたたえ合う」展開にしたり、或いは「ケンカでは勝てなかったが人間としては負けていない」形にするでしょう。
しかし、青山くんは戦っている最中に、マウントポジションから掌底を打ちおろしつつ、「お前は人間として薄っぺらなんだ」と「説教」までしてくるのです。
確かにそこに至るまで主人公の田西は「オレは今まで努力したことが無い」「何事も一生懸命やってこなかった」「夢中になったことが無い」と繰り返しています。
対して青山は「努力し」「積み上げて」来たのでしょう。人間的にはクズですが、仕事面において、社会人としては立派ということなのでしょう。
つまり、「ケンカの実力的」にも「人間的」にも完敗であることをこれでもかと田西とそして読者に植え付けてくるのです。
それでいて、そこまでボロボロになっていながらヒロイン1と別れ際に最低の言葉を口走って決定的に破局してしまいます。読者の誰が観ても「よりによってそこでそんなこと言うなんて、愛想を尽かされてもどうしようもない」と思わせるタイミングで。
(といってもこの辺りからヒロインのクズっぷりも徐々に明らかになってきていて、唯一の武器「サラリーマンアッパー」を青山に密告し、ボロボロの田西を見ていながら真顔で青山の安否を確認したことが田西に決定的に冷めさせる原因になったと見ることも可能。あれだけのことをされながらまだ青山に未練があるちはるに対して勝手に「守ってやる!」と盛り上がってる田西の空回りぶりが涙を誘います)
いざケンカと言うことになった後、会社の「昼行燈」みたいなおじさんが実は元ボクサーらしく(明言はしませんでしたが)、「特訓」を付け始めるに至って「これは面白くなった」と思ったのにこの結末。
つまり、現在の格差は「努力の結果」であり、自業自得であると。これまでの積み重ねが違うと。
とはいえ田西は劇中で「努力」も「特訓」もしています。
「友情・努力・勝利」は週刊少年ジャンプのスローガンですが、「愛情・努力・敗北」という展開になっています。それも「全て自分の怠惰」によって。
少なくともジャンプでは絶対にありえない展開。
ここだけ読むと、人間性はさておき「青山」の現在の強さは彼なりに努力をした結果であると読み取れます。格闘技の経験や、現在もジムに通って鍛え続けていたりといった事実は明言されませんが、きっと彼なりに「積み上げてきたもの」があるのでしょう(だからと言ってヒロインを寝取って妊娠させて捨てていいことにはなりませんが)。
つまり、「人間的に上位」という位置づけなのです。
これは1作前の「ルサンチマン」にも共通する人間観で、「勝者か敗者かは生まれた時に決まっている。勝者に生まれついたものは何をやっても勝ち、敗者に生まれついた者は何をやってもみじめに負けることになっている」といったセリフがあります。
「何言ってるんだ」「甘えるな」「努力をしない言い訳にしてんじゃねえ」
…という感想が大半でしょう。
「だったら頑張ればいいじゃないか」
という声も聞こえます。
しかし、「駄目な人間」はその「頑張る事」が既に出来ないんです。だからこそ駄目人間な訳です。もっと言えば「出来る人間」は「頑張る」ことをすることが出来るおぜん立てがあり、しかも頑張れば頑張っただけ報われる星めぐりの下に生きています。
しかも恐ろしいのは、田西は劇中で彼なりに「頑張って」いること。少なくとも青山との対決のために特訓をしつつ、少なくとも青山戦に関してのみいうならばオ○ニーの為にサボったりはしていません。
普通、フィクションの中でこれだけひたむきに頑張れば何かの「報い」があってもよさそうなものです。
それなのに完全敗北です。
更に残酷なのは青山はその後身体を病んでしまい、整った顔も醜く膨れ上がり、人工肛門を付けて激しい運動すら困難になってしまい、主人公たる田西との「戦いのリング」から一方的に降りてしまいます。
これはかなり違いますが「あしたのジョー」と力石徹との関係を髣髴(ほうふつ)とさせます。
元々「あしたのジョー」のジョーには破滅願望があるかの様な精神状態を感じさせるところがありますが、力石が死んだ後はまるで抜け殻のように死に場所を求めて戦い続けます。
「あしたのジョー」は旧版コミックスだと21巻ありますが、なんと力石はその半分のところで死んでしまい、ジョーはおよそ劇中の半分近くを亡霊のように彷徨(さまよ)うことになります。
こういう風に「ライバルが途中で降りる」展開は対決ものの連載漫画だとままあります。
有名なのは超名作「みどりのマキバオー」の終生のライバル・カスケードなど。
痛々しいのは、田西はそれでも尚「元気になったらまたやり合おうぜ!次は負けねえぞ!」みたいな「いいセリフ」を言い放っちゃうこと。
青山は「…だからそういうことじゃねえんだよ」と、見下げ果てたと言わんばかりに去ってしまいます。始めから全く相手にもしていません。
それどころか「ボクがこんなに落ちぶれていい気分でしょ?」みたいなことまで言います。きっと自分がそうだから他人もそうだと思っているんでしょう。全く同じ人類とは思えません。
この場面のことを妻(カイミ。もちろん既読)にしたら「あたしならザマアみろって言っちゃう」と全く抵抗なく言い放ちました。む~ん、女って怖いなあ。
私がこう言ったのは、青山くんが『うれしいでしょ、俺がこうなって』と言ったのに返す言葉としてのことで、青山くんが何も言わなかったら、あえて『ザマみろ』なんて言いません・・・。それか、あえて言葉を返さずスルーします・・・。不治の病になってそうな人に『元気になったら今度こそぶっ倒す!』とか言うのも、残酷なことだと思うのです。
恐らく男ならそういう感想にはならないでしょう。どうしてもガキなので「拳で決着を付けたい」気持はある。
というか、次こそは「人としての格付けで勝てないなりに「いい勝負」をして「認めさせて」やる」と思っちゃうのが男の子というものです。
それが「病気リタイア」でこれからは「弱者の側」に行くなんて…。
またも「人間としての格の違い」を見せつけられ、永遠に勝てないまま固定されて終わってしまいます。
ここで彼に一抹の憐憫の情も感じない読者は人ではないでしょう。
ただ、繰り返しますが青山は「万死に値する」敵(かたき)役です。
もう一度奴の行状を箇条書きにしましょう。
・主人公の思い人で純粋無垢な恋心を育んでいたヒロイン1(ちはるちゃん)を寝取る。
・寝物語で企画を盗み取り、結果として退職→都落ちに追い込む。
・避妊をしない趣味を押し付けてからの乱交によって妊娠からの堕胎に追い込む。
・病院にも来ない。
・金は渡したが「本当に妊娠したんだか怪しいもんだ」と守銭奴と決めつける。
・一切の罪悪感を感じない。
・自分の排泄物のついた尻の穴の排泄物をなめとらせる。
・主人公に向かって、また公衆の面前でヒロインを性的に人間的に侮辱する。
…やっぱり死んでいいなこいつは。
…と思ってしまいそうなんですが、少なくともこの場面でこれらの行状をフラッシュバックはしないんです。
こいつが完膚なきまでに叩きのめされ、「すいませんでした」と心から反省し、詫びて地面に頭をこすり付けて土下座するか、或いはオカマを掘られたりするか、惨殺されたりしない限りは読者としては溜飲が下がらないのですが、正にそのまま退場してしまいます。
まんまと悪が生き延びる「社会派」ドラマみたいで物凄くモヤっとします。そう感じさせるのが目的なのでしょうからその意味では成功しているのですが。
悪は滅びない
「ルサンチマン」が花沢作品で最も好きであるというファンも多数いるみたいですが、気持ちは分かります。
現在3作ある長編の中で最もハッピーエンドだからです。
「人間の心の闇」も描かれはしますが、悪役も割と「教条的」な悪役で読者の個人的な恨みを買う形になってませんのでそこまで憎めないんです。
「神崎」までが「実はブサイク」ってことになるとテーマ的にブレてしまってます。
ところが「ボーイズオンザラン」では正に「許しがたい悪」が次々に登場します。
前述の青山もそうですし、地味なところでは青山の後輩の内木(ないき)など。劇中、やかましいオタクにローリングソバットを見舞う場面があるのですが、いざとなれば(特にオタクなどという唾棄すべきクズ相手には)暴力を振るうのに何の精神的痛痒(つうよう)も感じないのはもうサイコパスでしょう。
結果的に彼も劇中で罰された形跡がありません。一応「サラリーマンアッパー」の実験台になってノックアウトはされますが、その後きっちり「報復」されますし、この程度では「罰」になりません。
クズ具合で言えば青山とどっこいなのに。
また、メインヒロインに見えたちはるちゃん(ヒロイン1)も地元に帰れば男をとっかえひっかえしては性器が小さいだの陰口を言うクズ女に落ちぶれており、田西の新しい彼女に見える花ちゃん(ヒロイン2)のことをネチネチ言って遂に田西に「あんたもだろうが」とキレさせるに至ります。
この田西をヒロインがキレさせるというのはよほどのことです。ガンジーをキレさせるみたいなものです。
そう言われて逆ギレからのフェイクリストカット(*)、ホテルへの淫行誘い出しからのレイプ捏造(ねつぞう)のための写真撮影、あまつさえ最終回の後には「ストーカー被害者」としてインタビューに答えるという陰湿さです。
青山ほどではないにしろ正真正銘のクソ女に転落してしまっています。
花沢先生によるとちはるちゃんは最初からメインヒロインとしては想定されておらず、アンチヒロインとして悪さが際立つ様に演出されていたとのことではあります。
ただ、ここまでの悪役ともなれば劇中で何らかの「制裁」を受けないと読者としてはスッキリしないのですが当然それもなし。
流石に彼女には「同情の余地」は多大にあるとはいえ、読者としてはスッキリしません。
(*リストカットは自殺というよりは「狂言自殺」の手段。つまり「最初から助けられる」ことを想定して「構ってもらう」のが目的と言えます。また、描写を見る限り傷が非常に浅く、あれなら空気に触れた血液が凝固して止まります。本気で死にたいのなら手首ごと切断するくらいの深い傷にし、更に傷口が固まらない様に水に漬け続け無いと駄目。本気で死ぬつもりの人がよく「風呂場」でリストカットするのはそのため。私なら傷を見て判断し、119番して放置して帰るでしょう)
しほさんのイタズラによって全ての運命が捻じ曲がった形ですが、仮にあれが無かったならば、ちはるちゃんは「闇落ち」しなかったのでしょうか?
残念ながらそれは無いと思います。あれが本性なのだとすれば、いずれは「ささいなきっかけ」からこういう面倒臭い展開になったと思われます。閑話休題。
一番やるせないのが「シューマイ」くんを組織的にいじめていた元締めのガキ。
こいつは恐らく将来は「青山」みたいな悪徳弁護士になって大金稼ぐんでしょうな。そして数えきれない「いじめられっ子」を不幸にした代償など特に受けず、社会的にも成功して幸せな家族に囲まれて長生きするんでしょう。現実はクソゲーですわ。
田西は最後、ささやかな幸せこそ掴みますが、善意故に行動した彼が逮捕され、「真の悪」たるいじめっ子どもが「被害者」として遇される結末は「社会派」として渋い展開なのは結構ですがこれまたスッキリしません。
せめて「真相が明らかになる」か「真の悪」が「しかるべき報いを受け」て欲しかった。
こんな見方は甘いのかもしれませんが。
まとめ
偏見を承知で言いますが、恐らく花沢先生はとても人間的に出来た方なんだと思います。
高度な皮肉みたいに聞こえるかもしれませんがそうではなく。
私だったら、仮に主人公を殺そうとも「許されない悪役」は殺さないまでも苛烈な「罰」を与えるでしょう。
「北斗の拳」だったらいたいけな子供にムチをくれたモヒカンは次のコマで破裂していますし、「ガンツ」なら真っ二つになったり引きちぎられたりして死亡です。
誤解していた大衆が「そういうことだったのか!誤解していてスミマセン」となる瞬間こそが最も溜飲が下がる瞬間でしょうに。
基本的に「忠臣蔵」は余り好きではないのですが、この部分だけは好きです。
しかし、花沢先生は「世の中そういうもんだ」と達観しているかの様。
確かに「世の中そういうもん」です。
もしも、この世のあまねく「悪」が成敗されていたならば「水戸黄門」「大岡越前」「遠山の金さん」そして「必殺仕事人」などがこれほど持てはやされる訳がありません。現実は正義が誤解され、悪が勝利するものなのです。
どんな物語であれ、ラストに至って主人公が生きている以上、「その登場人物の人生の途中から途中まで」を切り取ったものにしかなりません。
余計なことまで描きこんで読者にしっかり「腑に落ちて」もらうことを余り考えていないのでしょう。
作品が下るごとにどんどんラストにおける情報提供が希薄になっています。そう思えば「結局何だったんだ?」としか思えない「アイアムアヒーロー」のラストにも納得…はしないまでも「仕方が無いな」と諦めることは出来そうです。
花沢漫画は決して甘くないこの世の無常を駄目人間を通して映し出してくれます。
「人間は生まれつき勝つべき者と負けるべき者が決まっている」
「駄目な人間の努力は報われない」
「悪は滅びない」
誰もが薄々勘付いているけど言ってしまうと余りにも救いが無いので言ってこなかった現実をコミックと言う形で突きつけてくれます。
それが多幸感にも厭世観にも寄りかからず、決して極端に走らない抑制の効いた筆致で描き出してくれます。
私の予測では次は「ヒロイン1と結ばれてヒロイン2の愛は実らない」展開が残っていることになりますが果たして?
とにかく読み終わったあと、いろんな感情がぐるぐるに回ってしまって、色んなことを考えさせてくれます。
間違いなく言えるのは、この漫画はダメ人間が一念発起してボクシングを習い、憎き相手にリベンジを果たす痛快娯楽作品では全くないということ。
「誰にも理解されないかもしれないが、オレはやるだけやったんだ!」と妻とたった二人だけで結果としての敗戦を誇り合う感動の名作「ロッキー」と全く逆です。
そもそも「決闘」という感覚がずれているし、勝利を捧げるはずの彼女も最後の最後まで手ひどく捨てられたはずの男に感情が向きっぱなしで、対戦を全く望んでいません。
全てが空回り。
結末は打ち切りの噂もあるそうですが、確かに詰め込み気味です。
私はせめて最後くらいは田西が報われて欲しかったのに、「爆弾魔として服役」していた彼の出所後の人生設計が明るいとは到底思えません。
パートナーは聴覚障害者で苦労も多いでしょう。
シューマイくんと新しい家族になったことが匂わされますが、きっとチャンピオンになったあたりで「チャンピオンの養父は爆弾魔だった!」とか「週刊文〇」あたりにすっぱ抜かれそう。
冤罪が晴れないままというのは物凄くモヤっとします。
少なくとも「人間賛歌」なのかどうかはよくわかりません。
ただ、未熟な男は女性に対して「天使」か「娼婦」かの極端なイメージしか持てないといいます。
そして当然現実はどちらでもありません。
決して一言で割り切れない複雑な感想を齎(もたら)してくれる花沢漫画の真骨頂を楽しませていただきました。ありがとうございました。